戦国時代には、華やかな戦国武将たちの陰で、運命に翻弄(ほんろう)された女性たちが数多く存在しました。
そうした女性の1人に、豊臣秀吉の妹として知られるあさひ(朝日姫/旭姫) がいます。
あさひ(朝日姫)は政治的な策略のなかで人生を翻弄(ほんろう)され、まるで政治的な道具として扱われることもありました。
では、そんなあさひ(朝日姫)は、どのような人物だったのでしょうか。
この記事では、あさひ(朝日姫)が歩んだ人生をたどりながら、当時の時代背景や、あさひ(朝日姫)が果たした役割について深掘りしていきます^^
あさひ(朝日姫)とはどんな人?生涯をたどってみると……
あさひ(朝日姫)の人生は政治に翻弄された
戦国時代の激動のなか、女性たちの運命は家の存亡や政治的な駆け引きに大きく左右されることがしばしばでした。
こうした女性たちの話は、歴史ドラマなどでもよく描かれていますね。
そうした女性のなかでも、豊臣秀吉の妹・あさひ(朝日姫)ほど、天下統一という巨大な歯車のなかで過酷な役割を背負わされた女性はいなかったかもしれません。
あさひ(朝日姫)の生涯は、兄・豊臣秀吉の野望と、徳川家康という強大な存在とのあいだで揺れ動きました。
あさひ(朝日姫)の運命は40代半ばで急転
あさひ(朝日姫)は1543年(天文12年)、尾張国中村(現在の愛知県名古屋市)という地で、父・竹阿弥(ちくあみ)と母・なかのあいだに生まれました。
なかとは、のちの大政所(おおまんどころ)となる女性です。
あさひ(朝日姫)は、天下人となる豊臣秀吉とは異父兄妹、豊臣秀長とは同母兄妹にあたると伝えられています。
あさひ(朝日姫)の前半生は、わりと穏やかでした。
尾張の農民出身で、のちに秀吉に取り立てられ武士となった佐治日向守(さじひゅうがのかみ)の妻として、静かで満ち足りた日々を送っていたといいます。
しかし、兄・秀吉が織田信長亡きあとの覇権争いを制し、天下人への階段を駆け上がり始めると、あさひ(朝日姫)の運命は急転します。
転換点となったのは、1584年の「小牧・長久手(ながくて)の戦い」でした。
秀吉はこの戦いで徳川家康と交戦しましたが、家康の巧みな戦術の前に決定的な勝利をつかむことができませんでした。
一方で、徳川家康は北条氏と同盟を結び、さらには東北の伊達氏とも連携する動きを見せていました。
徳川、北条、伊達の3氏が結びつけば、10万規模の兵力となり、秀吉といえども勝利の保証はありません。
そこで、武力による制圧が困難であることを悟った秀吉は、方針を〝武力討伐〟から〝外交による懐柔〟へと大きく転換させました。
その切り札となったのが、妹のあさひ(朝日姫)だったのです。
秀吉は、当時40代半ばに差しかかっていた朝日姫に対し、夫・佐治日向守との離縁を強制します。
そして、正室不在であった家康のもとへ、新たな正室として嫁がせることを決めたのです。
現代の日本人から見れば、常軌を逸したなんとも過酷な要請です。
愛する夫との別れを強いられたあさひ(朝日姫)の悲しみは深く、一説には、別れさせられた佐治日向守が離縁を苦にして自害したとも伝えられています。
男の私からすれば、佐治日向守が哀れで胸が痛みます。
あさひ(朝日姫)は徳川家康のもとへ嫁ぐ
1586年、あさひ(朝日姫)は44歳という、当時としては異例の高齢で、徳川家康(当時45歳)のもとへ嫁(とつ)ぎました。
あさひ(朝日姫)は最初は浜松城、その後、駿府(現在の静岡県)へ入り、「駿河御前」(するがごぜん)と呼ばれるようになります。
この結婚は、徳川家康を秀吉自身の義弟にすることで、豊臣家への臣従を促すための布石でした。
しかし、歴戦の武将である徳川家康は、秀吉を警戒しつづけました。
妹・あさひ(朝日姫)を差し出されたとはいえ、臣従の証である〝上洛〟(じょうらく:京都へ行くこと)をかたくなに拒み続けたのです。
徳川家康側では、「秀吉に従うべきか、戦い続けるべきか」という議論が続き、緊張状態は解けませんでした。
こうした事態を打開するため、秀吉はさらなる強硬策、いや、〝捨て身の策〟に出ます。
なんと、母・なか(大政所)を、あさひ(朝日姫)の見舞いという名目で、徳川家康のもとへ送り込んだのです。
秀吉の妹に加え、秀吉の実母までもが徳川領へ入る――
これは実質的な人質であり、秀吉がなりふりかまわず徳川家康に頭を下げさせようとする執念の表れでした。
身が震えるほどの恐ろしい決意を秀吉に感じるのは私だけではないでしょう。
徳川家康が受けたインパクトは、想像を超えるものであったにちがいありません。
秀吉がこれほどまでの〝誠意〟(に見せかけた圧力)を示したことで、ついに徳川家康も折れました。
徳川家康は秀吉の臣下となる意思を示し、上洛したのです。
こうして、2人の巨頭の対決は回避され、豊臣政権の基盤は盤石なものとなりました。
一方、徳川家康が上洛しているあいだ、留守を預かっていた家臣・本多重次は、主君に万一のことがあれば即座に2人を焼き殺せるよう、あさひ(朝日姫)と大政所の屋敷の周囲に薪(まき)を積み上げたと伝えられています。
あさひ(朝日姫)と大政所は、死と隣り合わせの恐怖のなかで過ごしていたのです。
あさひ(朝日姫)は48年で生涯を閉じる
このような状況のなか、あさひ(朝日姫)の心身は限界を迎えていました。
政略結婚の重圧、慣れない土地での孤独、そして命の危険にさらされた日々は、あさひ(朝日姫)の身体を確実にむしばんでいました。
これだけのストレスやプレッシャーを受けていれば、精神と身体に異常をきたさないわけがないと思います。
1588年、京へ戻った母・大政所が病に倒れると、朝日姫は見舞いのため上洛します。
しかし、あさひ(朝日姫)自身もまた病に伏し、そのまま京都の聚楽第(じゅらくてい:秀吉が京都に建てた政庁兼邸宅)で療養生活を送ることとなります。
そして、1590年、徳川家康に嫁いでからわずか4年、あさひ(朝日姫)は聚楽第にて48年の生涯を閉じました。
あさひ(朝日姫)の死後、徳川家康は京都の東福寺に彼女を葬り、自身の本拠地である駿府にも瑞龍寺(ずいりゅうじ)を建立して手厚く供養しました。
豊臣秀吉亡きあとも、徳川家康はあさひ(朝日姫)の冥福を祈り続けたと言われています。
兄・豊臣秀吉の野望のために夫と引き裂かれ、敵地へ送られ、最後は病に倒れたあさひ(朝日姫)。
その人生は悲劇的ですが、あさひ(朝日姫)が身を捧げて豊臣家と徳川家の架け橋となったことで、無益な戦いが回避されたことはまぎれもない事実です。
戦国の世に咲き、そして散っていったあさひ(朝日姫)の存在は、歴史の大きな転換点において、武力以上の力を発揮したと言えるのではないでしょうか。
あさひ(朝日姫)は美人だった?性格は?
あさひ(朝日姫)は美人だった!
……という記録は残念ながら残っていません^^;
美人であったかどうかはともかく、最初の夫である佐治日向守とは穏やかな夫婦生活を送っていたと伝えられています。
しかし、強引な政略によってあさひ(朝日姫)を失った佐治日向守は、その後、出家したとか、自害したという説があります。
それほどまでに、佐治日向守にとって、あさひ(朝日姫)は大切な存在だったのでしょうね。
一方で、あさひ(朝日姫)は「器量がよくなかった」という説があります。
徳川家康には多くの側室がいましたが、44歳のあさひ(朝日姫)が正室として迎えられたことに対して、周囲には嫉妬や偏見を持つ者が少なくなかったと思います。
そのことが、後世にこうした説がささやかれる土壌になったのではないでしょうか。
外見に関する史料はないものの、あさひ(朝日姫)の内面は穏やかでつつましい人柄であったと推測できます。
政略に翻弄されながらも求められた役割を静かに果たしたあさひ(朝日姫)は、控えめで上品な心の美しさを備えた女性であったのではないかと想像できます。
あさひ(朝日姫)と徳川家康の仲は?意外な事実があった!
あさひ(朝日姫)と徳川家康の仲について、詳細な史料は多く残っていません。
しかし、政略結婚であったにもかかわらず、あさひ(朝日姫)と徳川家康の関係は比較的良好であったと考えられます。
徳川家康には多くの側室がいましたが、あさひ(朝日姫)を正室として迎え入れます。
徳川家康は豊臣秀吉の命令で再婚を強いられたあさひ(朝日姫)の境遇を理解し、丁重に扱ったとされています。
徳川家康は上洛する際、「万一自分に何かあっても、あさひ(朝日姫)だけは必ず無事に大坂へ帰せ」と家臣に命じたというエピソードが残っており、あさひ(朝日姫)を気遣っていたことがうかがえます。
また、母である大政所が病に倒れたときには、徳川家康はあさひ(朝日姫)に見舞いのために大坂城へ行くことを許し、あさひ(朝日姫)と豊臣家とのつながりを尊重した姿勢が見て取れます。
あさひ(朝日姫)はのちに病を患い、京都の聚楽第で亡くなってしまいます。
徳川家康はその死を深く悼(いた)み、京都の東福寺に丁重に葬ったと伝えられています。
また、家康自身の本拠地である駿府にも瑞龍寺(ずいりゅうじ)を建立し、手厚く供養しました。
わずかな期間の結婚生活だったにもかかわらず、徳川家康はあさひ(朝日姫)のことを大切にしていたのだと思います。
あさひ(朝日姫)にとって長松丸は救いの存在だった!
あさひ(朝日姫)と交流していた人物に、徳川家康の子・長松丸(ちょうまつまる)がいます。
長松丸は後の2代将軍、徳川秀忠です。
長松丸の実母は側室・おあいの方(西郷の局:さいごうのつぼね)で、1579年に長松丸を出産しました。
しかし、実母が病に伏してしまったため、幼い長松丸はあさひ(朝日姫)を母のように慕(した)っていたと伝えられています。
あさひ(朝日姫)には実子がいませんでした。
そのため、自分を慕ってくれる長松丸の存在は、あさひ(朝日姫)の心を慰(なぐさ)める大きな支えとなったと思います。
つまり、兄・秀吉の命により政略の渦に巻き込まれ、孤独を抱えていたあさひ(朝日姫)にとって、純粋に寄り添ってくれる長松丸の存在は、寂しさを紛(まぎ)らわす温かい救いだったと想像されます。
あさひ(朝日姫)と長松丸の交流の記録は残されていませんが、2人のあいだには心安らぐ穏やかな時間があったはずです。
厳しい運命に翻弄されたあさひ(朝日姫)にとって、長松丸との触れ合いは、わずかながらも心を和ませるひとときだったのかもしれませんね。
あさひ(朝日姫)は戦国時代を見えないところで支えた女性
あさひ(朝日姫)の生涯は、華やかな戦国武将たちの陰で、静かに、そして確実に歴史を動かした女性の姿そのものでした。
政略の渦中にあっても、あさひ(朝日姫)は戦国時代の大きな流れのなかで自分に与えられた使命を果たし続けました。
あさひ(朝日姫)の存在がなければ、豊臣と徳川の和睦(わぼく)はより厳しいものとなり、歴史の流れが変わっていたかもしれません。
あさひ(朝日姫)は、表舞台にこそ立たなかったものの、戦国時代という荒波を、見えないところで静かに支えた重要な人物であったのだと思います。
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