最澄と空海は、平安時代の最重要人物です。
天台宗と真言宗という宗派を開き、日本仏教の基礎を築きました。
最澄と空海は、それぞれどんな生涯をたどったのでしょうか?
一方で、空海と最澄は、学校の定期試験や入学試験でよく出題されます。
とりわけ、開祖と宗派と寺院の組み合わせは、なかなか覚えづらいもの。
語呂合わせを使った覚え方をご紹介します。
また、最澄と空海の2人は何が共通していて、どこに違いがあるのか。
さらに、最澄と空海の関係と2人が決別したワケについてもわかりやすくご紹介していきます^^
平安時代に生きた最澄と空海とは?わかりやすく紹介
最澄の生涯
767年に生まれた最澄(さいちょう)は、幼名を「広野」(ひろの)といい、12歳のときに近江の国分寺へ入門すると、14歳には出家しました。
そして、19歳(785年)で東大寺で具足戒を授かり、正式に僧侶となります。
ところが、政治と癒着していた仏教界に嫌気がさし、すぐに比叡山へこもってしまいます。
仏の教えを修得するまでは山から下りないという決意のもと、修行に専念したのです。
797年、最澄は桓武天皇の「内供奉」になったことをきっかけに、朝廷との関係を密にし、唐への留学を天皇に直訴します。
804年には、念願がかなって遣唐使として唐へ渡ります。
唐では、天台山で、天台教学、坐禅、密教、戒律を学び、805年に帰国します。
しかし、最澄の学んだ密教は、部分的で不完全でした。
そこで、812年、唐から完全な密教を持ち帰った空海の弟子となり、真言密教を学びますが、816年には決別してしまいます。
その後、最澄は、法相宗の僧・徳一と約5年にわたって論争したり(三一権実論争)、大乗戒壇の設立に尽力したりします。
そして、822年、この世を去るのです。
最澄の死の直後、大乗戒壇の設立が認められ、悲願が成就しました。
また、866年には、嵯峨天皇から「伝教大師」の名が贈られています。
▼最澄の生涯(年表つき)についてさらにくわしく知りたい方は、こちら↓↓↓

空海の生涯
774年に讃岐国に生まれた空海(幼名:真魚〈まお〉)は、18歳のときに大学(官吏になるための教育機関)へ入学するも、仏教に興味を抱き、翌年には中退します。
そして、19歳で出家し、修行のために四国各県や奈良県の吉野山をめぐりました。
その修行のなかで『大日経』と出会った空海は、唐で密教を修得したいという思いをつのらせます。
そして、空海が31歳のときに遣唐使に選ばれ、「留学生」(るがくしょう)として唐へ渡りました。
唐に入った空海は、密教の高僧・恵果(けいか)を青龍寺に訪ねます。
恵果は空海をただ者ではないと見抜き、すべてを伝授するにふさわしい僧だと即断。
すぐに、「灌頂」(かんじょう:後継者にする密教の儀式)を行うなど、わずか3ヵ月のうちに空海に密教のすべてを伝授したのです。
その直後、恵果は自身の使命を果たし終えたかのように、この世を去ります。
一方の空海は、膨大な数の経典や曼荼羅、法具などを携え、806年に帰国します。
空海が持ち帰った密教の真髄を学ぼうと、一時期、天台宗(てんだいしゅう)を開いた最澄が空海の弟子になったりしました。
空海は、816年に嵯峨天皇から高野山(こうやさん)を下賜されると、真言密教を修得する道場として金剛峯寺(こんごうぶじ)を創建します。
また、823年には、下賜された京都の東寺(とうじ)の名を「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)と改め、密教布教の拠点としました。
また、空海は、民衆のために、さまざまな社会事業を推進。
満濃池(まんのういけ:香川県仲多度郡)を修繕工事したり、庶民のための教育機関「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を設立したりしました。
832年、空海は59歳になると高野山に移り住み、真言宗の基盤を強化する活動に身を献げました。
そして、835年、弟子たちが読経するなか入滅した(亡くなった)のです。
享年62歳でした。
なお、空海は「弘法大師」(こうぼうだいし)とも呼ばれますが、その名は、入滅から86年が経った921年に醍醐天皇から贈られたものです。
▼空海の生涯(年表つき)についてさらにくわしく知りたい方は、こちら↓↓↓

最澄と空海、試験に向けた覚え方は?語呂合わせを紹介
歴史や日本史の試験で最澄や空海のことが問われたとき、正答するには、開祖の名前、宗派、寺院の名前を正確に関連づけて覚えていなければいけません。
最澄、天台宗(てんだいしゅう)の開祖、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ) 空海、真言宗(しんごんしゅう)の開祖、高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ) |
覚え方としては、語呂合わせがいちばんでしょう^^
真空パックは天才だ!(真空天才)
もっともポピュラーなのが――
- 真空パックは天才だ!
あるいは、もっとシンプルに――
- 真空天才
「真空」は〝真言宗と空海〟、「天才」は〝天台宗と最(=才)澄〟ということです。
天災で未来永劫、真空に
創建した寺院の名前も合わせて覚えるなら――
- 天災で未来永劫、真空に
「天災」は〝天台宗と最(=災)澄〟、「永劫」は〝延(=永)暦寺と金剛(=劫)峯寺〟、「真空」は〝真言宗と空海〟ということです。
日本語の意味は不明ですが……(苦笑)
あるいは、これらの例を参考に自分なりの覚え方を編み出すのもいいでしょう。
試験、がんばってください!
▼最澄と空海の覚え方について、さらに語呂合わせを知りたい方は、こちら↓↓↓

最澄と空海の違いは?
最澄と空海は、平安時代の同じ時期に唐(中国)へ渡って仏教を学び、帰国後、最澄は天台宗、空海は真言宗を開きました。
ともに大きな功績があった最澄と空海ですが、2人のあいだには大きな違いもありました。
1つめは、身分の違いです。
最澄は国費で通訳つきの「還学生」(げんがくしょう)として唐へ渡った一方で、空海は自費で通訳なしの留学生(るがくしょう)として唐へ渡りました。
2つめは、唐で学んだ仏教の違いです。
最澄は天台宗を中心に禅、密教、戒律と総合的に学んだのに対し、空海は密教オンリーでした。
そのため、最澄が開いた天台宗と空海が開いた真言宗には大きな違いがありました。
最大の違いは、最澄の天台宗では修行によって一歩一歩仏の境地へ近づいていくのに対し、空海の真言宗ではいきなり仏の境地になりきる修行を行う点です。
これが3つめの違いです。
また、4つめとして、当時の日本で主流だった奈良仏教(南都六宗)との関係でも、最澄と空海は違いました。
最澄は、〝限られた者しか仏になることはできない〟という教えの奈良仏教に対し、〝誰でも仏になることができる〟と説き、対立しました。
一方の空海は、奈良仏教と密接な関係を築き、調和的な関係を築きました。
ともに日本仏教の確立に貢献した最澄と空海ですが、両者のあいだにこれだけの大きな違いがあったのは驚きでした!
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最澄と空海の関係は?決別のワケとは?
空海は、太宰府から平安京へ戻ると、嵯峨天皇に請われ、密教を教えることになりました。
これを知った最澄は、空海が持ち帰った密教を学びたいと思うようになります。
そこで最澄は、空海に文献の借用を申し出ました。
最澄は空海に貸し出してもらった文献を比叡山へ持ち帰り、書き写します。
最澄にはっきりとわかったことは、自分が学んだ密教は不完全だということでした。
最澄は、812年秋に空海と初対面を果たします。
そして、最澄と空海は意気投合し、空海は最澄に灌頂(かんじょう)を約束します。
灌頂とは、要するに、師が弟子に法門を伝授することなので、最澄を弟子とすることを約束したということです。
同年の秋から冬にかけて灌頂は行われ、空海と最澄は師弟関係となりました。
高名な僧侶・最澄が新進気鋭の無名の空海に弟子入りしたことは世間に知れ渡り、空海の知名度は一気に上がりました。
ここまで、最澄と空海は良好な関係にありました。
ところが……
灌頂を受けたあと、最澄は空海に、何年修行したら奥義を伝授してもらえるかと訊ねました。
空海の答えは「3年」でした。
しかし、すでに開宗していた天台宗のリーダーだった最澄は多忙だったため、弟子たちのみを空海のもとに預けました。
そして、その後も空海から書物を借りようと願い出ていたのですが、『理趣釈経』(りしゅしゃくきょう)を貸してほしいという最澄の申し出を空海は断ります。
真に密教を体得したいのであれば、密教の実践を積んでいかなければならないというのが、その理由だったようです。
この出来事がきっかけで、最澄と空海の関係は疎遠になっていきます。
決定的だったのは、空海のところで修行していた弟子の泰範(たいはん)を最澄が比叡山へ戻そうとしたところ、空海がこれを断ったことです。
泰範は最澄にとって第1の後継者でした。
最澄は、とても嘆き悲しんだにちがいありません。
この一件で、最澄と空海の関係は決裂したのでした。
なお、その後、泰範は、「空海の十大弟子」「四哲」の1人と称されるまでになりました。
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まとめ
- 最澄と空海は遣唐使の一員として中国へ渡るが、その身分には違いがあった
- 最澄は天台宗を開き、比叡山延暦寺を創建。空海は真言宗を開き、高野山金剛峯寺を創建
- 試験に向けた覚え方は「真空パックは天才だ!」(真空天才)「天災で未来永劫、真空に」がオススメ
- 奈良仏教(南都六宗)に対して、最澄は敵対的、空海は調和的
- 一時期、最澄と空海は師弟関係にあったが、その後、空海が最澄の文献借用の申し出や最澄の弟子・泰範の比叡山への帰還を断ったことで関係が決裂した