井伊直弼は何した人?死因、性格、子孫の現在まで徹底紹介!

井伊直弼 幕臣(幕末)/藩士/志士

【この記事のポイント】

  • 井伊直弼(いい・なおすけ)は、幕府の大老として、勅許なしに日米修好通商条約を締結し、日本の開国を決定づけた。
  • 安政の大獄を断行し、吉田松陰ら反対勢力を厳しく弾圧して幕府の権威回復を図った。
  • 1860年、強権的な政治への反発により、江戸城の桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。
  • 不遇な青年期に茶道や和歌などの芸事を極め、「チャカポン」と呼ばれる文化人だった。
  • 国難を救った決断力が現在再評価されており、子孫は今も彦根の文化振興を支えている。

井伊直弼は何した人?

幕末(ばくまつ)の動乱期に活躍した人物のなかで井伊直弼(いい・なおすけ)ほど評価が分かれる人物は他に見つかりません。

歴史の授業では、幕府の反対勢力を弾圧した安政の大獄(あんせいのたいごく)を断行した独裁者として、冷徹なイメージで語られがちです。

しかし、その生涯を詳細に追いかけるうちに、ただの権力欲に溺れた冷酷な人物だったとは思えなくなりました。

むしろ、誰よりも平和を愛する文化人でありながら、国家の危機に際してあえて泥をかぶる道を選んだ孤独なリーダーだったと感じます。

井伊直弼の生涯は、NHK大河ドラマの記念すべき第1作『花の生涯』の主人公として描かれています。

それほどまでに、幕末を象徴する人物だったのです。

井伊直弼は大老でしたが、歴史的視点から一言で表現するなら、日本の開国路線を決定づけた人物でした。

大老とは、江戸幕府における将軍の補佐役(ほさやく)であり、幕政を統括(とうかつ)する最高職です。

常設ではなく、国家の重大局面に際して臨時で設置されました。

井伊直弼は、天皇の許可である勅許(ちょっきょ)を得ずに日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)に調印(ちょういん)しました。

このことが多くの反対派の怒りを買うことになったのです。

井伊直弼の時代の日本は危機的状況にあった

当時の日本は、鎖国(さこく)を維持して外国を追い払うべきだとする攘夷論(じょういろん)と、世界情勢を考えて開国すべきだとする開国論が激しくぶつかり合っていました。

その緊迫した状況下で大老に就任したのが彦根藩主(ひこねはんしゅ)であった井伊直弼です。

井伊直弼は、中国大陸の清(しん)がアヘン戦争で列強に踏みにじられた惨状を知っていました。

これ以上の交渉遅延は国家の存亡に関わると判断したのでしょう。

独断専行の批判を浴びることは百も承知で、井伊直弼は日本を守る一点において、あまりにも重い政治的決断を下しました。

井伊直弼による幕府建て直しの試み

当時の江戸幕府には将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)がありました。

将軍の跡継ぎとして、井伊直弼は紀州藩(きしゅうはん)の徳川慶福(とくがわ・よしとみ)を推しました。

対立する一橋派(ひとつばしは)を排除し幕府の権威を再構築しようとしたのです。

井伊直弼による安政の大獄はさらなる反発を招いた

井伊直弼は安政の大獄を断行した人物です。

安政の大獄は、井伊直弼が反対勢力を徹底排除した政治弾圧(せいじだんあつ)です。

対象は反対派の公家(くげ)や大名(だいみょう)から、尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱える志士(しし)や知識人にまで及びました。

長州(ちょうしゅう)の吉田松陰(よしだ・しょういん)や、福井(ふくい)の橋本左内(はしもと・さない)などに厳しい処罰を下しています。

この強権的な手法により幕府の権威回復を図りましたが、結果として反発をさらに強めることとなりました。

井伊直弼の行動には大きな問題があったと言えるでしょう。

しかし、視点を変えれば、あの大混乱のなかで日本を植民地化の危機から救い出すための懸命の措置だったと見ることができます。

井伊直弼の死因は暗殺

1860年3月3日、井伊直弼は、水戸浪士や薩摩藩士らに襲撃され、暗殺されました。

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)です。

江戸に季節外れの激しい大雪が降り積もる朝でした。

井伊直弼を乗せた駕籠(かご)が彦根藩邸(ひこねはんてい)を出発し、江戸城の桜田門付近に差し掛かったときです。

一発の銃声が静寂を切り裂き、その弾丸は井伊直弼の腰を撃ち抜き、駕籠のなかで身動きが取れなくなりました。

刺客(しかく)によって、駕籠から引きずり出され、その首を討たれました。

政治の最高責任者が、江戸城の門前で殺害され、幕府権威の失墜(しっつい)を世に知らせる出来事となりました。

国家の将来を案じて難局に立ち向かったリーダーの最期としては、あまりにも衝撃的だったと感じます。

井伊直弼の性格はストイックで多趣味だった

井伊直弼の性格は、極めてストイックで多趣味な努力家だったようです。

彦根藩主の十四男であり、本来であれば家督を継ぐことなど到底望めない立場として生まれました。

青年期の約15年間を「埋木舎」(うもれぎのや)という屋敷で過ごしています。

埋木舎は、今は国の特別史跡となっています。

井伊直弼は、みずからを世の中に必要とされない枯れ木になぞらえ、学問や芸術の世界に深く没頭しました。

特に茶道においては一期一会(いちごいちえ)の言葉を重んじ、独自の境地を切り開くほどの達人でした。

和歌(わか)や居合(いあい)、鼓(つづみ)など多方面の芸事において、専門家も驚くほどの高みに達していたのです。

井伊直弼の多趣味であることを皮肉って「チャカポン」とも呼ばれました。

茶の湯(チャ)と和歌(カ)と鼓(ポン)のことですね。

政治の場での非情な決断力は、自分の信念以外に頼らない精神から生まれたのでしょう。

井伊直弼の内面には、繊細な美意識と、決めた道を突き進む求道者(ぐどうしゃ)のような覚悟があったと感じています。

井伊直弼の子孫は現在?

井伊家は維新後も華族(かぞく)としての地位を保ち、現在でも滋賀県彦根市の発展や文化振興に深く関わっています。

特に有名な後継者としては、井伊直弼の直系にあたる井伊直愛(いい・なおよし)氏が挙げられます。

戦後の彦根市長を長きにわたって務め、殿様市長として市民から信頼を寄せられていました。

現在はその次の世代がご当主で、博物館の館長などを務められているそうです。

国宝・彦根城の保存活動や歴史資料の公開を通じ、日本の貴重な文化遺産を後世に伝えることに取り組まれています。

井伊直弼は日本中から恨みを買った時期もありましたが、現在ではその決断に対する再評価が進んでいます。

そして彦根の地では多くの人びとが井伊家を誇りに思っているのです。

井伊直弼の精神は今も生きている

井伊直弼は戦国時代の武将、井伊直政(いい・なおまさ)の玄孫(やしゃご)の、そのまた玄孫に当たります。

徳川四天王(とくがわしてんのう)と謳(うた)われた武将の9代後の子孫が、幕末の幕府を支えたのですね。

井伊直弼が大切にした家宝の赤備えの兜(かぶと)など、名家にはさまざまな逸話があります。

そのなかのひとつに招き猫の伝説があるそうです。

猫が赤い兜をかぶると、人気キャラクターの「ひこにゃん」に繋がります。

井伊直弼の精神は、意外とこんなところに受け継がれているのかもしれませんね。

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