康慶という名前を聞いたことがある方は、あまりいないのではないでしょうか。
運慶や快慶にくらべると、教科書ではマイナーな扱いです。
しかし、康慶の功績にはとても大きなものがあります。
この康慶がいなければ、運慶や快慶の名が歴史に残ることはなかったかもしれないからです。
このページでは、康慶の生涯や作品を紹介しつつ、運慶や快慶に連なる慶派の歩みについてわかりやすくご紹介していきます^^
康慶は慶派の創始者
康慶は「こうけい」と読み、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師です。
生没年は不明です。
平安時代後期には、宇治平等院鳳凰堂に安置されている国宝の阿弥陀如来坐像を制作したことで有名な定朝(じょうちょう)という仏師がいました。
その定朝から数えて4代目が康慶になります。
康慶は「慶派」(けいは)と呼ばれる仏師グループを形成しますが、当初は傍流でした。
というのも、定朝から連なる仏師たちのなかには、都がある京都を活動拠点とし、朝廷や藤原氏のために仏像を制作した「円派」(えんぱ)や「院派」(いんぱ)という仏師グループがいたのですが、円派や院派のほうが主流派で、康慶の師匠筋にあたる頼助(らいじょ)や康助(こうじょ)のグループ=「奈良仏師」は傍流だったからです。
奈良仏師たちは奈良を拠点とし、もっぱら興福寺の仏像制作や修理を手がけていました。
康慶は、その奈良仏師の一員だったのです。
さらに言えば、康慶は、最初は奈良仏師のグループのなかでも傍流だったようです。
推測するに、このころから、康慶には「いつかはトップになってやるぞ!」という野心があったのではないでしょうか。
康慶は康助の子・康朝(こうちょう)のもとで仏像制作を教わっていましたが、康朝には息子であり弟子でもある成朝(せいちょう)がいて、その成朝のほうが奈良仏師の主流派だったのです。
しかし、その成朝は若くして亡くなります。
その結果、康慶の活躍の場が増えてきました。
そしてついに、康慶が表舞台に躍り出るきっかけとなる事件が起きます。
1180年の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討ちです。
反平氏勢力の拠点であった興福寺と東大寺に火が放たれたのです。
興福寺と東大寺は灰燼(かいじん)と化し、数多くの仏像が焼失しました。
この興福寺と東大寺の復興を担ったのが、康慶率いる慶派です。
慶派は数多くの仏像を制作した功績により、円派や院派をしのぐ地位を得ることになりました。
そして、その勢いは、興福寺大仏師職や京都の東寺大仏師職を継承したり、京都に七条仏所を構えたりしながら、近世まで続くこととなったのです。
これは、康慶が仏師としての力量はもちろん、仏師グループを率いるリーダーシップの力量も高かったからこそ、グループが永続することができたのだと思います。
▼康慶を祖とする慶派についてくわしく知りたい方は、こちら↓↓↓

康慶の仏像作品制作年表
1152年 | 高さ約150mの吉祥天像を造像 |
1175年 | 円成寺(奈良県)大日如来像を、自身は監督として運慶に造らせる |
1177年 | 後白河法皇の蓮華王院五重塔の仏像を制作し、その功績により「法橋」(ほっきょう)の僧位を得る 静岡・瑞林寺の地蔵菩薩坐像を造像 |
1188年 | 翌年にかけて興福寺南円堂の本尊・不空羂索観音像、四天王像、法相六祖像を造像 |
1191年 | 興福寺南大門の仁王像の造立について興福寺の僧が康慶を推す(造像したかどうかは不明) |
1193年 | 蓮華王院の不動三尊像を制作 |
1195年 | 興福寺復興の功績により「法眼」(ほうげん)の僧位を得る |
1196年 | 東大寺供養に際し、仏像制作の行賞を運慶に譲る(運慶は「法眼」の僧位を得る) 運慶、快慶、定覚、定慶らといっしょに東大寺大仏殿の四天王像などを制作 |
1197年 | 東大寺の伎楽面(ぎがくめん:治道)と神童寺の伎楽面(力士)を制作 |
1198年 | 東大寺大仏殿の脇侍像と虚空蔵菩薩像(高さ約12m)を運慶とともに造像 |
この他にも、東福寺観音堂の毘沙門三尊像や京都光明峯寺金堂の本尊・大日如来像、愛染明王像を制作しています。
また、鳥取三仏寺の蔵王権現立像が、康慶の作品と推測されています。
康慶の代表作
上記のうち、康慶の代表作と言われているのが、 興福寺南円堂の不空羂索観音坐像、四天王像、法相六祖坐像です。
弟子・運慶が東国の仏像作品を制作しているころ、康慶が慶派を率いて造像しました。
本尊・不空羂索観音坐像は、南円堂が焼失する前にあった像の姿を再現したので、天平時代の作風を受け継ぎながらも、独自のリアリズムとたくましい量感に満ち、新しい様式を確立した仏像作品だと評価されています。
康慶は、人体の骨格や筋肉をリアルに力強く再現することにこだわっていて、その作風は慶派の特徴となりました。
また、法相宗を中国から日本へ伝えた6人の僧侶をモデルにした法相六祖坐像においても骨格や筋肉のリアリティにこだわっていますが、それだけではなく、顔や衣のひだもリアルに仕上げています。
さらに、康慶は、法相六祖坐像において目に水晶をはめこむ「玉眼」(ぎょくがん)の技法を取り入れました。
これによって、まるで本当に見つめられているかのようなリアルな眼を実現しています。
仏を本物の人間のように生き生きとつくることは、仏を身近に感じさせる絶大な効果があり、これらの仏像を見た人はかなりの衝撃を受けたのではないでしょうか。
康慶、運慶、快慶たち慶派の活躍とは?
話は一部重複しますが、ここで、康慶、運慶、快慶と連なる慶派の活躍を見てみましょう。
平安時代、仏像の定型を確立したのは、定朝(じょうちょう)でした。
定朝は、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像を造仏した仏師です。
その定朝が亡くなると、仏師たちは3つのグループに分かれます。
京都を主な拠点とする「円派」(えんぱ)「院派」(いんぱ)と、奈良を拠点とする「奈良仏師」です。
慶派の創始者・康慶は、奈良仏師のグループに所属していました。
1177年、康慶は、後白河法皇の御所に付属する蓮華王院の五重塔に納める仏像を複数制作します。
1164年に蓮華王院が創建された際は、奈良仏師の正系を継ぐ康助(こうじょ)と康朝(こうちょう)が仏像を制作しました。
このとき康慶は奈良仏師のなかでは傍系でしたが、その後、康朝が亡くなり、その子・成朝が造仏を指揮するには若すぎたため、康慶が重要な仕事を任されることになったと考えられます。
康慶は、五重塔の仏像制作の功績が認められ、朝廷から「法橋」(ほっきょう)という高い僧位を与えられます。
このことは、康慶率いる慶派がのちに主流派となっていくための大きな足がかりとなったのではないでしょうか。
また、同じ時期、康慶は静岡・瑞林寺の地蔵菩薩坐像を造像しますが、その像内には、のちに開かれる鎌倉幕府に関わる人物の名前が記されています。
康慶のあと慶派を率いた運慶は東国武士と密接な関係を結んでいきますが、ここにその端緒を見ることができます。
こうして康慶は、慶派の基礎をつくりあげていきました。
その後、康慶は、運慶に奈良・円成寺の大日如来坐像の制作を任せたり、興福寺南円堂の複数の仏像の復興を担ったり、東大寺大仏殿の脇侍像や四天王像を運慶とともに制作したりしました。
康慶のあと、慶派の代表は運慶や快慶へ受け継がれていきます。
そして、康朝の子・成朝が若くして亡くなると、慶派は奈良仏師の正系に踊り出ることになりました。
運慶には、湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助という6人の息子がおり、みな仏師になりました。
運慶は1198年ころに、この息子たちといっしょに、今は存在しない幻の東寺南大門の金剛力士像を制作します。
また、湛慶は蓮華王院本堂の千手観音菩薩坐像、康弁は興福寺の龍燈鬼(りゅうとうき)立像などを制作します。
それらいずれの仏像も、慶派特有の力強さとリアリティに満ちあふれた作品となっています。
慶派はスーパースターぞろいですね!
このように、慶派が躍進することができたのは、康慶が朝廷から認められたこと、鎌倉幕府を開いた東国武士とつながりがあったこと、興福寺や東大寺の復興事業に参加することができたこと、奈良仏師の正系が途絶えたことなど、複数の要因が運よく重なった結果だということができるでしょう。
もちろん慶派の仏師たちの技量が高くなければ実現しなかったでしょうが、それだけではここまで躍進することはできなかったはずです。
運やタイミングを味方につけることも実力のうちだとすれば、慶派はその実力もかなりあったと言えるのではないでしょうか。
▼慶派についてさらにくわしく知りたい方は、こちら↓↓↓

康慶と運慶、快慶の関係は?
ここまでのところで触れてはいませんでしたが、康慶と運慶、快慶とはどのような関係なのかという疑問をもつ方は多いでしょう。
ズバリ、康慶は運慶の父親であり、快慶は康慶の弟子です。
すでにご紹介したように、はじめ康慶は奈良仏師のなかでも傍系でしたが、正系を継いだ成朝が若くして亡くなったという事情はありつつも、正系を継ぐにいたりました。
これはやはり、康慶の技量が高かったからこそだと思います。
後白河法皇に認められるほどだったわけですから。
その康慶の技量の高さは、息子の運慶や弟子の快慶へ確実に受け継がれました。
ちなみに、運慶と快慶には血のつながりはありませんから、運慶と快慶は兄弟弟子の間柄です。
まとめ
- 焼き討ちされた興福寺と東大寺の復興の功績により、康慶率いる慶派の地位が高まった
- 康慶の代表作は、 興福寺南円堂の不空羂索観音坐像、四天王像、法相六祖坐像
- 慶派の躍進の要因は、(1)康慶が朝廷から認められた、(2)鎌倉幕府を開いた東国武士とつながりがあった、(3)興福寺や東大寺の復興事業に参加することができた、(4)奈良仏師の正系が途絶えた
- 康慶は運慶の父親で、快慶は康慶の弟子