東大寺と聞いて、大仏を真っ先に思い浮かべる人は多いでしょう。
でも、東大寺には大仏の他にも有名なものがいくつかあります。
その1つが、南大門の金剛力士像です。
この記事では、東大寺南大門の金剛力士像とは何か、作った人は誰か、なぜ作られたのか、どんな特徴があるのかについてご紹介していきます^^
東大寺南大門の金剛力士像とは?
東大寺南大門の金剛力士像は、左右2体でワンセットです。
↑↑↑向かって左側に立っているのが、口を開けた阿形(あぎょう)の像。
↑↑↑向かって右側に立っているのが、口を閉じた吽形(うんぎょう)の像です。
〝阿吽〟(あうん)の「阿」とは仏教が誕生したインドのサンスクリット語で、日本語の50音の「あ」に当たり、「吽」は「ん」に当たります。
転じて、万物の始まりと終わりを意味しますが、密教では悟りを求める菩提心を起こして涅槃へいたる道を意味します。
阿形の像と吽形の像が対になっているのは、そのことを表現しているのです。
そんな深い意味があったんですね。
ところで、像のモデルの金剛力士は、もともと古代インドのバラモン教の神で、仏教(密教)の護法善神(ごほうぜんじん)として取り入れられました。
つまり、金剛力士は仏教の守護神なのです。
金剛力士の特徴は、手に、古代インドの神々が持つヴァジュラという武器=金剛杵(こんごうしょ)を持っている点です。
金剛杵は、密教では、煩悩を打ち砕き、邪念を払う法具として用いられます。
金剛杵を持って立つ金剛力士は、どんな悪者も退治してしまうような迫力がありますね。
なお、金剛力士は「仁王」(におう)とも呼ばれますが、どう違うのでしょうか?
どちらの名前も同一のものをさしますが、仏教の守護者としての役割が強調されるときは「金剛力士」、山門で寺院エリアを守る役割が強調されるときは「仁王」と呼ばれる傾向があるようです。
東大寺南大門の金剛力士像を作った人は?
東大寺南大門の金剛力士像2体は、1203年の完成以来、一度も本格的な修理が行われていませんでした。
しかし、損傷が激しく、崩壊寸前の状態だったため、ついに大規模な修理が決定。
1988年(昭和63年)11月から1993年(平成5年)4月にかけての4年半、解体修理が行われました。
図面1枚すらない状況のため、うまく解体できる保証も、ふたたび組み立てられる保証もゼロでした。
東大寺南大門の金剛力士像2体は国宝だったので、ヘタをすると国宝を失ってしまうという大きな危険を伴う修理だったのです。
修理に参加した職人たちはみな、ものすごい緊張感のなかで仕事をしたのでしょうね。
像を解体すると、それぞれの像の内部から、数多くの墨書や納入品が見つかりました。
すると、阿形像の金剛杵からは運慶(うんけい)と快慶(かいけい)の名が、吽形像の納入経からは定覚(じょうかく)と湛慶(たんけい)の名が見つかったのです!
この発見により、阿形像は運慶と快慶が13人の小仏師を率いて制作し、吽形像は運慶の弟の定覚と、運慶の息子の湛慶が、12人の小仏師を率いて制作したことがわかりました。
つまり、東大寺南大門の金剛力士像2体は、運慶率いる工房=「慶派」の仏師たちが総力を挙げて制作した仏像だったのです。

東大寺南大門の金剛力士像はなぜ作られた?
金剛力士が仏教の守護神であることはすでに述べましたが、これは寺院エリアへ〝邪〟が侵入するのを防ぐ役割を担っていると考えられます。
平安時代末期、源氏と平氏の争いによって寺院は数多くの建物を失いました。
このため、鎌倉時代になると、〝邪〟を再度侵入させまいと、入口の門で仁王立ちしてにらみをきかせる金剛力士像を置く寺院が数多くありました。
東大寺は平家勢力によって焼き討ちにされたあと、朝廷や源頼朝の支援によって再建が進みましたが、その責任者であった俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は、最後に再建された南大門に金剛力士像を安置することを強く願ったようです。
その想いの底には、2度と災いを繰り返させないという強い意志があったのではないでしょうか。
東大寺南大門の金剛力士像の特徴は?
東大寺南大門の金剛力士像の特徴①:迫力
2体の金剛力士像を見てすぐに感じるのは、その迫力です。
筋骨隆々でマッチョな体型。
像は8メートルを超える高さ。
2階建ての家の高さに匹敵します。
しかも、眼をむいたすさまじい怒りの形相で見下ろされるので、思わず足がすくんでしまいます。
私は小学生のときに修学旅行で見ましたが、まだ背が小さかったせいか、まるで10階建てのビルと同じくらいの高さの怪獣が立ちはだかっているように感じられました。
東大寺南大門の金剛力士像の特徴②:制作が短期間
金剛力士像は、そんなに大きな像だから、さぞかしつくるのに時間がかかったと思いきや、制作日数はなんと69日!
納入経の記述によれば、1203年7月24日に造像が始まり、10月3日に完成したそうです。
なぜ、これほど大きな像を、これだけ短い期間でつくりあげることができたのでしょうか?
1つには、すでに述べたように、運慶、快慶、定覚、湛慶が小仏師たちとともに2手に分かれ、それぞれの像を同時進行でつくったから。
もう1つは、1つの像を約3000個の部品で組み立てたから。
つまり、多数の部品を同時並行でつくり、プラモデルのように一気に組み立てたから短期間で完成させることができたのです。
ちなみに、阿形像には修正がないのに、吽形像には複数の修正がありました。
たとえば、眼の上に小さい材を足して視線を下向きにしてあったり、乳首の位置やヘソの位置が動かされたりしていました。
これは、阿形像はベテランの快慶が熟練の技で粛々(しゅくしゅく)と制作を進めた一方で、吽形像は若手の定覚と湛慶に運慶がつきっきりで指導した証しではないかと思えてしまいます。
東大寺南大門の金剛力士像の特徴③:特殊性
3000個もの部品から像を組み立てる技法は、日本全国に現存する仏像のなかでも、東大寺南大門の金剛力士像くらいでしょう。
要は、特殊な工法なのです。
さらに特殊な点が東大寺南大門の金剛力士像にはあります。
1つは、ポーズです。
阿形像は、金剛杵を右手で垂直に立てて持ち、左手は大きく開いて胸の前に突き出すポーズをしています。
吽形像は、右ひじを高い位置で張り出し、右手の親指と人さし指で輪をつくっている一方、左手は腰の位置で宝棒を構えるポーズをしています。
これは、他の大多数の金剛力士像とは異なるポーズです。
私は、東大寺南大門の金剛力士像のほうが他の金剛力士像よりもバイタリティーが感じられ、躍動感があって好きです^^
もう1つは、像の配置のしかたです。
東大寺南大門の金剛力士像は、阿形像が門の左、吽形像が門の右に配置され、お互い向き合っています。
一方、他の多くの寺院の金剛力士像においては、阿形像は門の右、吽形像は門の左に配置されています。
また、阿形像と吽形像がお互い向き合っていることはまれで、ふつうは参拝のために門へ近づいてくる者に正対しています。
なぜ、東大寺南大門の金剛力士像は、特殊な配置になったのでしょうか?
2009年に中公新書として出版された『仁王』(一坂太郎著)には次のような記述があります(p.194)――
最近の研究により、南大門像は中国宋代の新しい仏画に基づいて造られたことが分かった(熊田由美子「運慶とその施主たち」『運慶 仏像彫刻の革命』平成九年)。重源を支援する源頼朝は、従来の様式を守る必要はないと考えたのだろう。そのほうが武家政権を打ち立て、新体制の国造りを進めようとする頼朝が行う大事業にふさわしい。すべては重源の、自由な裁量に任されたのである(太田博太郎「重源と快慶」『奈良の寺』17、昭和五十年)。
つまり、施主である源頼朝は前例にとらわれず、というか、むしろ積極的に斬新な形式を取り入れる意向だったので、再建の指揮者である重源も過去にないような金剛力士像の制作を運慶たちに依頼し、運慶たちもその依頼に存分に応えたのだと考えられます。
その表れが、上記の特殊性になったのではないでしょうか。
まとめ
- 金剛力士とは仏教の守護神
- 運慶、快慶、定覚、湛慶をはじめとした運慶工房の仏師たちが金剛力士像の制作を担当
- 東大寺で2度と災いを起こさせないという重源の強い想いが金剛力士像制作の根源にあったのではないか
- 東大寺南大門金剛力士像の特徴は、迫力、制作が短期間、特殊性という点にある
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