斎藤一の若い頃に衝撃!妻や死因について徹底解明!!

斎藤一 幕臣(幕末)/藩士/志士

斎藤一は若い頃、人を斬り殺し、逃げた!

新選組(しんせんぐみ)の隊士(たいし)の多くは、幕末から戊辰戦争(ぼしんせんそう)にかけて命を落としました。

しかし、そのなかに、最後まで剣を手放さず、明治の世まで生き延びた男がいます。

名前は、斎藤一(さいとう・はじめ)。

無口で、酒豪(しゅごう)で、謎が多い人物です。

しかし、この斎藤一こそが新選組の本質をもっともよく体現していると感じます。

斎藤一は、1842年生まれとされています。

父の山口右助(やまぐち・ゆうすけ)は播磨国(はりまのくに)の明石藩(あかしはん)の足軽(あしがる)の子孫にあたり、斎藤一は明石浪人とされています。

1863年、斎藤一は江戸の小石川(こいしがわ)というところで、旗本の男と口論となり、斬り殺してしまいました。

一説には果たし合いの末ともされますが、父に諭されて京都の知人を頼って逃げました。

この時点で、斎藤一はまだ20歳です。

人を斬って逃げた、それが斎藤一のスタートラインでした。

斎藤一、新選組と出会う

斎藤一は、父の知人である京都の剣術道場主のもとに身を隠しますが、そこで新選組と運命的に出会ったのです。

同じ頃、幕府の浪士組(ろうしぐみ)に参加した近藤勇(こんどう・いさみ)が率いる試衛館組(しえいかんぐみ)が京で新選組を結成しています。

近藤勇と再会した斎藤一は、誘われるまま新選組に参加しました。

斎藤一は新選組の最年少幹部だった

新選組に参加した斎藤一は当時20歳。

藤堂平助(とうどう・へいすけ)と同い年で、2人は最年少の幹部となりました。

斎藤一の剣の実力は、「無敵の剣」とまで評され、突き技が得意だったとされています。

1867年には、新選組を離脱した伊東甲子太郎(いとう・かしたろう)が御陵衛士(ごりょうえいし)を結成すると、斎藤一も参加しますが、これは間者(かんじゃ:スパイのこと)としての潜入でした。

そして、伊東甲子太郎らの近藤勇暗殺計画を察知して急報(きゅうほう)していたのです。

スパイもこなし、暗殺役もこなし、それが斎藤一でした。

斎藤一が妻・時尾と歩んだ人生とは?

斎藤一の妻として知られるのが、高木時尾(たかぎ・ときお)です。

高木時尾は会津藩大目付(あいづはんおおめつけ)・高木家の長女として生まれました。

会津藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)の姉君である照姫(てるひめ)付きの祐筆(ゆうひつ:秘書のこと)でもありました。

斎藤一と時尾の出逢い

会津戦争の際には、幼(おさな)なじみだった山本八重(やまもと・やえ)が夜襲(やしゅう)に出撃(しゅつげき)する直前、男装する必要があった山本八重の髪を切ってあげたのが高木時尾でした。

会津若松城(鶴ヶ城)の籠城戦(ろうじょうせん)では負傷者の救護(きゅうご)にも当たっています。

一方、斎藤一は、1868年に会津で新政府軍と戦い、投降しています。

そんな戦場を生き抜いた斎藤一と高木時尾が、戦後の荒廃(こうはい)のなかで出逢ったのです。

ちなみに、斎藤一と時尾の仲人(なこうど)は豪華でした。

元会津藩主・松平容保が上仲人(かみなこうど)を、元会津藩家老(かろう)の佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)と山川浩(やまかわ・ひろし)が下仲人(しもなこうど)を務める、会津の総力を挙げた式でした。

斎藤一と時尾は藤田姓に改名、女子師範学校の運営に関わる

結婚を機に、斎藤一は高木時尾の母方の姓である藤田を名乗り、藤田五郎(ふじた・ごろう)と改名しました。

高木時尾も藤田時尾(ふじた・ときお)となりました。

その後、2人の間には長男・藤田勉(ふじた・つとむ)、次男・藤田剛(ふじた・つよし)、三男・藤田龍雄(ふじた・たつお)の3人の子が生まれました。

藤田時尾は東京女子師範学校の舎監(しゃかん)を務め、自宅2階は女学生たちのための寄宿舎として開放していました。

斎藤一も、この学校に書記として奉職しています。

斎藤一は晩年、妻とともに会津の戦死者を供養

晩年は妻・藤田時尾とともに、会津戦争で戦死した隊士たちの供養に奔走(ほんそう)しました。

新選組について生涯語らなかった斎藤一が、会津の戦死者の供養だけは続けたのです。

その事実が、斎藤一が本当に忠義を向けた先を物語っています。

斎藤一の死因は?驚きの最期!

斎藤一は明治時代、警察官となる

1874年(明治7年)、斎藤一は警視庁に採用されます。

そして、1877年(明治10年)、西南戦争に警部補として参加します

斬り込みの際に敵弾で負傷しながらも、大砲2門を奪取するなど奮戦し、東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)でも報道される手柄を立てました。

会津の仇敵(きゅうてき)である薩摩(さつま)に勝利した戦争でした。

そして、麻布警察署詰外勤警部(あざぶけいさつしょづめがいきんけいぶ)として勤務し、1891年(明治24年)に退職しました。

斎藤一、剣術の師範を務める

その後は、東京高等師範学校附属東京教育博物館の守衛長をしながら撃剣師範(げきけんしはん)も務め、学生に剣術を教えていたとのことです。

幕末の人斬りが、明治の世で学生に剣を教えています。

時代が変わっても、斎藤一の本質は変わっていませんでした。

斎藤一は坐禅したまま息を引き取る!

斎藤一の死因は胃潰瘍(いかいよう)でした。

1915年(大正4年)9月28日、床の間に向かって坐禅(ざぜん)したまま息を引き取ったそうです。

享年72歳でした。

斎藤一の会津への思い

斎藤一は、明治維新後は新選組について一切語りませんでした。

語らない理由が、後悔だったのか、誇りだったのか、それは誰にもわかりません。

一方で、会津への思いは隠しませんでした

「死んだら会津に墓を建ててくれ」と遺言を残した斎藤一は、妻とともに会津若松市の阿弥陀寺(あみだじ)に眠っています。

斎藤一は、最後まで会津に帰りたいと願っていたのだと思います。

斎藤一は、新選組の中で最も正直に生きた男だった

斎藤一は新選組で、ただ剣を握り、命じられたことをこなし、生き延びました。

斎藤一は、新選組に関して語りませんでした。

多くの事件に関与していても、まるで自分がそこにはいなかったようです。

一方で、最後まで会津への義理は捨てませんでした

ひたすら、会津への忠誠を忘れない一貫した姿勢がそこには見て取れます。

近藤勇は斬首され、土方歳三(ひじかた・としぞう)は銃弾に倒れ、沖田総司(おきた・そうじ)は病に斃(たお)れました。

斎藤一だけが、72歳まで生き延びたのです。

それは強かったからではなく、余計なことを信じなかったからではないでしょうか。

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