前田利家とまつ(芳春院)の子孫は?利家はどんな人?死因の真相は!?

前田利家 大名/武士

戦国時代の武将のなかでも、豪快さと人間味をあわせ持つ人物として知られているのが前田利家(まえだ・としいえ)です。

織田信長に仕え、豊臣秀吉の時代を生き抜き、加賀(石川県)百万石の礎を築いた武将として、その名は広く知られています。

一方で、妻である「まつ」との深い信頼関係や、家族を大切にする姿勢も多くの人に語り継がれてきました。

前田利家は戦に強いだけでなく、人の心をつかむ力を持っていました。

この記事では、前田利家の生涯とまつとの逸話を紹介しながら、その人物像や魅力を解説していきます。

前田利家とまつ(芳春院) は窮地を切り抜け百万石を築いた〝戦国最強夫婦〟

前田利家は1538年、尾張(おわり:現在の愛知県)の豪族・前田家の四男として生まれました。

14歳頃に同じ尾張を治めていた織田信長に仕えるようになります。

豊臣秀吉とは、同じ織田家の家臣として苦楽を共にした間柄で、若いころから親しい友人関係にありました。

前田利家は槍(やり)を手に戦場で活躍し、その武勇から「槍の又左」(やりのまたざ)という異名で知られるようになり、次第に名を広めていきました。

前田利家は22歳頃、幼少期から前田家で共に育った12歳のまつ(芳春院)と結婚します。

2人の結びつきは政略だけではなく、互いをよく知る深い信頼関係に基づくものでした。

しかし、結婚後まもなく、前田利家は重大な過ちを犯します。

織田信長の腹違いの弟・拾阿弥(じゅうあみ)を、盗みを理由に怒りに任せて斬ってしまったのです。

主君の身内を手にかける行為は重罪であり、織田信長は激怒して切腹を命じました。

最終的に柴田勝家の助命嘆願により命は救われたものの、前田利家は織田家を追放され、浪人の身となってしまいます。

突然の転落人生のなかでも、まつ(芳春院)は前田利家を責めることなく、黙って支え続けたと伝えられています。

貧しい生活のなかで、夫婦は苦労を分かち合いました。

その後、前田利家は汚名をそそぐため、みずから戦場に身を投じ、1560年の桶狭間の戦いなどで命がけの戦功を挙げます。

その努力が認められ、ふたたび織田信長に仕えることが許されました。

1569年には前田家の当主となり、一家を背負う立場になります。

やがて前田利家は北陸での戦いで功績を重ね、能登を与えられて大名へと出世します。

しかし、1582年、本能寺の変で織田信長が討たれると、時代は大きく動きました。

清洲(きよす)会議後、豊臣秀吉と柴田勝家が争った1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、前田利家は恩義ある柴田勝家に従いながらも、豊臣秀吉と戦うことができず撤退し、最終的に豊臣秀吉に仕える道を選びます。

その後、前田利家は豊臣秀吉に忠誠を尽くし、加賀・能登・越前の三国を治める北陸屈指の大名となりました。

大名となったあとも、前田利家はまつ(芳春院)を深く信頼し、家のことを任せていました。

まつ(芳春院)は家臣や子どもたちをまとめ、前田家が安定するよう尽力します。

豊臣秀吉の死後、徳川家康の影響力が拡大するなか、前田利家は亡くなります。

前田利家の死後、前田家が徳川家康と対立する可能性が高まると、まつ(芳春院)はみずから人質として江戸へ向かい、前田家の存続を守ろうとします。

この行動は、夫亡き後も家を守り抜こうとする強い覚悟の表れでした。

このように、前田利家の波乱に満ちた人生は、まつとの結婚と深い絆によって支えられていました。

前田利家とまつ(芳春院)の夫婦関係は、戦国時代における理想的な夫婦像として、今も語り継がれています。

前田利家の子孫は今?加賀百万石から現代の社長へいたる400年

前田利家は、まつ(芳春院)とのあいだに2男9女、合わせて11人もの子どもをもうけました。

さらに、側室とのあいだにも7人の子がいたとされ、前田家の血筋は多方面へと広がっていきました。

戦国時代は、戦に敗れれば一族が滅ぶことも珍しくありませんでした。

そのなかで前田利家が家を守り、多くの子孫を後世に残せたのは、武将としての力量だけでなく、まつ(芳春院)の支えがあったからこそでしょう。

前田利家の没後、長男の利長は関ヶ原の戦いで東軍に属し、加賀百万石の礎を築きました。

江戸時代には、将軍家や徳川一門から幾度も正室を迎えることで、幕府との強固な信頼関係を構築しています。

歴代当主が徳川将軍から名前の一字を授かるなど、前田家は外様大名(とざまだいみょう)ながら別格の地位を保ち続けました。

また、各地に富山藩や大聖寺藩などの分家を広げたことで、その血脈はより盤石なものとなったのです。

明治の動乱を経て侯爵となった家系は、現代へも脈々と続いています。

2023年には、公務や実業の場で重責を担ってきた第18代当主・前田利祐(まえだ・としやす)氏から、息子の第19代当主・前田利宜(としたか)氏(イノダコーヒ社長)へ家督が継承されました。

前田利家とまつ(芳春院)が育んだ強固な絆は、400年以上の時を超え、今なおその伝統と誇りを未来へとつなぎ続けています。

前田利家はどんな人?槍の名手がそろばんを手につかんだ〝戦国サクセス〟

前田利家はどんな人だったのかというと、多面性のある人物だったと言えます。

若い頃の前田利家は、派手な服装を好み、常識にとらわれない振る舞いから「かぶき者」と呼ばれていました。

その一方で、戦場では命を惜しまぬ勇敢な武将として活躍し、槍の名手として恐れられています。

荒々しく豪快な姿は、多くの人に強い印象を残しました。

しかし、前田利家は、ただ勇ましいだけの武将ではありませんでした。

若い頃に浪人生活を経験したことで、暮らしの苦しさやお金の大切さを身をもって知ることになります。

そのため大名になってからは、そろばんを使って金銭管理をするほど堅実な性格へと変わっていきました。

無駄を嫌い、現実を見据える姿勢は、家を守るうえで大きな力となったのです。

賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉の味方についた判断にも、前田利家の人柄が表れています。

恩のある柴田勝家に義理を感じながらも、無益な争いを避け、国の安定を第一に考えました。

勇猛さと冷静な判断力をあわせ持つ人物、それが前田利家の真の姿だったのではないでしょうか。

前田利家の死因は病死?もう少し長生きしていれば歴史は変わっていた!?

前田利家は1599年に62歳で亡くなりました。

死因については、病死であったと考えられています。

晩年の前田利家は体調を崩しながらも、最期まで前田家と豊臣政権の行く末を案じていたとされています。

豊臣秀吉からは「息子の秀頼を頼む」と託されましたが、その願いを十分に果たすことができないまま、豊臣秀吉の死の翌年にこの世を去ります。

前田利家の死後、豊臣政権は急速に不安定となり、やがて関ヶ原の戦いへとつながっていきます。

もしも前田利家がもう少し長く生きていれば、歴史の流れは違ったものになっていたかもしれません。

前田利家は勇猛さと冷静さ、そして家族愛に満ちた武将だった!

前田利家は、戦場での勇猛さと現実を見据える冷静さをあわせ持った、非常に人間味あふれる武将でした。

加賀百万石という大きな礎を築いたその人生は、まさに波乱万丈だったと言えるでしょう。

その歩みを支えたのが、妻・まつ(芳春院)
との深い信頼関係でした。

苦しい浪人から北陸屈指の大名となり、その後も夫婦が力を合わせて家を守り続けたからこそ、前田家は栄え、子孫も現代まで続きました。

豪快さだけでなく、人を思いやる心と家族を大切にする姿勢こそが、前田利家という人物の最大の魅力なのだと私は思います。

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