石田三成(いしだ・みつなり)の人気が、高まっています。
かつては「嫌われ者」として語られることの多かった戦国武将ですが、最近の評価は大きく変わりつつあります。
関ヶ原の戦いで西軍の指揮を取ったことで知られていますが、もともとは豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)に仕えた文官でした。
近年、石田三成の人柄や生き方に注目が集まり、「実はいいやつだったのではないか?」という見方が広まっています。
筆者もまったく同意見で、この再評価の流れはとても自然なものだと思います。
石田三成はなぜ人気なのか?3つの視点から見えてくる真の姿
石田三成がなぜこれほど人気を集めているのでしょうか?
その理由は単純で、石田三成が〝実はいいやつだった〟ことを示す材料が、あまりにも多く残っているからです。
そこでまずは、石田三成の人気の背景として、彼が〝いいやつ〟だった(だろう)ことを示すエピソードを3つご紹介します。
石田三成人気の背景①:豊臣秀吉への忠義
石田三成の人気を語るうえで欠かせないのが、豊臣秀吉への忠義(ちゅうぎ)です。
忠義とは、現代風に言えば、お世話になった方への恩返しのことです。
これって、人間としてもっとも大切なことだと思いませんか?
石田三成は、豊臣秀吉から見出され、重用された人物で、その恩義(おんぎ)を生涯忘れなかったとされています。
豊臣秀吉の死後、多くの武将が徳川家康に接近していくなかで、石田三成は最後まで豊臣家を守ろうとしました。
福島正則(ふくしま・まさのり)や加藤清正(かとう・きよまさ)といった武将たちが徳川方についたのとは対照的です。
私は個人的には、この点に石田三成の不器用なまでの誠実さを感じます。
状況判断だけを考えれば、徳川方につく選択もあったはずですが、それでも石田三成は、豊臣秀吉への忠義を貫きました。
現代人は、こうした石田三成のなかに理想を見るからこそ、現代において人気となっているのではないでしょうか。
石田三成人気の背景②:民に慕われた領主
石田三成は、領主(りょうしゅ)としても高く評価されています。
近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の佐和山(さわやま)を治めていた石田三成は、検地(けんち)や年貢制度を整え、領内の安定に力を尽くしました。
無理な税金の徴収を行わず、民の生活を慮(おもんばか)る政治を行なったと伝えられています。
だから、石田三成は領民から慕われたのだと思います。
私見ですが、数字や制度に強いだけでなく、人の暮らしを想像できたからこそ、こうした評価が生まれたのではないでしょうか。
石田三成人気の背景③:徳川家康に気に入られていた!?
石田三成の最大の敵であるはずの徳川家康も、実は石田三成のことを気に入っていた可能性があります。
かなり突飛な考え方だと思われるかもしれませんが、根拠があります。
あるとき、石田三成が福島正則ら豊臣家臣団の武断派(ぶだんは)に襲われる事件がありました。
「七将襲撃事件」(しちしょうしゅうげきじけん)と呼ばれていますが、事前に情報をキャッチした石田三成は、なんと徳川家康の屋敷に逃げ込んだのです。
「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入(い)れば猟師(りょうし)も殺(ころ)さず」と言いますが、それだけではないように思えます。
徳川家康からしてみれば、味方になってくれた福島正則や加藤清正の方を大切にしなければならないはずです。
通常であれば、石田三成を彼らに引き渡すでしょう。
それなのに命を助けたということは、徳川家康は石田三成を気に入っていたと考えるのが自然です。
恩義の心が厚い、石田三成が自分の家来になってくれたらと望んだとしても、不思議ではないでしょう。
石田三成の性格がわかる2つのエピソードとは?
石田三成はどのような性格の人物だったのでしょうか?
それを窺い知ることができるエピソードを2つご紹介します。
石田三成の性格:相手への気遣いがハンパない!
石田三成の人柄を象徴するエピソードとして有名なのが、大谷吉継(おおたに・よしつぐ)への気遣いです。
石田三成の盟友・大谷吉継は、顔に膿(うみ)がたまるほどの重い病(やまい)を患(わずら)っていました。
ある茶席(ちゃせき)での出来事です。
当時の茶席では茶碗のお茶を回し飲みするような作法があったのですが、大谷吉継が飲んだあとに、茶碗に膿が落ちたのです。
回し飲みをする次の順番が石田三成だったのですが、石田三成は何事もなかったかのように、その茶を飲み干したと伝えられています。
相手を気遣い、恥をかかせないための行動でした。
私が石田三成の立場なら、到底(とうてい)できないと感じました。
ここに石田三成の優しさと、人への配慮がはっきりと表れていると思います。
石田三成の性格:私心なく謙虚この上なかった!
島左近(しま・さこん)が石田三成の家臣となった理由も、石田三成の性格を物語っています。
島左近はもともと大和地方の戦国武将・筒井順慶に仕えていましたが、後継の筒井定次(さだつぐ)とソリが合わず、筒井氏のもとを離れました。
その後、島左近は、それまでの功績を評価され、石田三成を含め、いろいろな家からスカウトの声がかかりました。
結局、島左近は石田三成の家臣となりますが、このとき三成は、島左近が浪人であるにもかかわらず、自分の禄高(ろくだか:主人が与える給与の額)の4万石の半分である2万石を与えることを示し、説得したのです。
このエピソードは、自分より格下の者に対しても頭を下げ、相当の待遇を惜しまなかった石田三成の私心のなさと謙虚さを表していると、私は思います。
石田三成の最後の言葉が実にかっこいい!
石田三成の最後の言葉として有名なのが、次の言葉です——
「大義(たいぎ)を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大切にするものだ」
実にかっこいい言葉です。
感情が抑えられた、静かで理知的な言葉だと私は思います。
石田三成の最後の言葉は処刑直前のもの
関ヶ原の戦いは、結果だけを見ると西軍の完敗に見えます。
しかし、当時の状況を考えると、石田三成に勝算がなかったわけではありません。
直江兼続(なおえ・かねつぐ)率いる上杉軍が中山道(なかせんどう)で徳川軍を牽制していました。
毛利(もうり)や吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の動き次第では、戦局は大きく変わっていた可能性があります。
私見ですが、関ヶ原の戦いは決して無謀な戦いだったのではなく、むしろ石田三成率いる西軍が優勢だったと思います。
この戦いに負けたあと、徳川方に捕らえられ処刑される際に、石田三成は上記の最後の言葉を発したのです。
石田三成が最後の言葉ににじませた信念とは?
この石田三成の最後の言葉には、彼の生き方が凝縮されています。
石田三成は、大義に生きた人でした。
だから、命は大義のために意味あるものとして使い切るものであり、決して粗末にしてはいけない——
石田三成は、そう思っていたにちがいありません。
そうした石田三成の生き方が、この一言に表れているように感じます。
今の時代であれば、ゆるぎない信念を持ったリーダーとして評価されていたかもしれませんね。
時代が石田三成にやっと追いついてきた?
石田三成の人気は、一過性のものではありません。
豊臣秀吉への忠義や、相手を思いやる優しさ、さらには約束を守る誠実さなどの人柄が、現代人の理想と重なっているからです。
私見ですが、石田三成は、あまりに早い時代に生まれたのかもしれません。
だからこそ、今になって評価が追いついてきたのではないでしょうか。
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