戦国時代ナンバーワンの覇王(はおう)と言えば、織田信長(おだ・のぶなが)です。
「天下布武」(てんかふぶ)を掲げ、既存の秩序を破壊しながら全国統一へと突き進みました。
しかし、下剋上(げこくじょう)の世の中、身内の武将もたびたび謀反(むほん)を起こします。
明智光秀(あけち・みつひで)による本能寺の変(ほんのうじのへん)はあまりにも有名ですが、その次に有名な謀反と言えば、荒木村重(あらき・むらしげ)によるものではないでしょうか。
この記事では、荒木村重とは一体どんな武将であったのか、その実像を読み解いていきます。
荒木村重の子孫は天才絵師となった!
1578年、織田信長の重臣として摂津(せっつ)一国を任されていた荒木村重は、突如として反旗を翻(ひるがえ)しました。
きっかけは、自身の部下が敵方である石山本願寺(いしやまほんがんじ)へ兵糧(ひょうろう)を横流ししていたという不正の発覚です。
織田信長の苛烈(かれつ)な性格を知る荒木村重は、「釈明しても許されない」という恐怖と猜疑心(さいぎしん)から、有岡城(ありおかじょう)に立てこもる道を選んだのです。
最終的に有岡城は落城しますが、捕らえられていた黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)が九死に一生を得ました。
土牢で生を繋いだ黒田官兵衛
なぜ黒田官兵衛は有岡城に捕えられていたのでしょうか?
籠城戦(ろうじょうせん)の最中、黒田官兵衛は荒木村重を説得しようと有岡城を訪れました。
黒田官兵衛はもともと荒木村重と同じく織田信長に仕える立場にあり、播磨(はりま)方面での調略(ちょうりゃく)や交渉を担う実務家でした。
特に荒木村重とは旧知の仲で、たんなる使者ではなく〝話が通じる相手〟として選ばれたと考えられます。
織田信長としても、武力で制圧する前に、内側から崩す戦略をとったわけです。
つまり、黒田官兵衛の来訪は、たんなる説得ではなく、〝最後通告に近い交渉〟だったと言えるでしょう。
しかし、荒木村重はこの申し出を受け入れず、黒田官兵衛を捕らえて土牢(つちろう)に幽閉(ゆうへい)してしまいます。
この判断は、織田信長の傘下(さんか)に戻ることを拒否した意思表示でもありました。
1年近い幽閉生活により、救い出されたときの黒田官兵衛は歩行困難なほど衰弱していましたが、このとき命拾いしたことがのちの歴史を大きく変えることになります。
絵師として血脈を繋いだ岩佐又兵衛
1年におよぶ籠城の末に、荒木村重は妻子や家臣を残して城を脱出してしまいました!
そのため、激怒した織田信長によって、荒木一族をはじめとする600名もの人びとが処刑されました。
しかし、織田信長の包囲網を潜(くぐ)り抜け、1人の赤ちゃんが乳母に救い出され、石山本願寺に保護されました。
その子は荒木村重の末子で、のちに江戸時代を代表する天才絵師となった岩佐又兵衛(いわさ・またべえ)でした。
母方の姓「岩佐」を名乗ることで、岩佐又兵衛という名が日本の芸術史に刻まれることとなりました。
荒木村重の子孫は現代にまで続いている?
荒木村重の荒木家、あるいは岩佐又兵衛の岩佐家は現代まで続いているという説が存在しますが、その真偽は定かではありません。
ただし、このような話が消えずに残り続けていること自体に意味があります。
完全に滅びたと断言できない存在、それは荒木村重の〝生き延びる〟という選択と重なります。
荒木村重は歴史上は敗者でありながら、記憶から消えない強烈なイメージがあります。
この存在感こそが、荒木村重の特徴なのかもしれません。
荒木村重の〝まんじゅう食い〟に織田信長は驚嘆!
荒木村重は織田信長の家臣となったとき、その豪胆さを認められ、頭角を現した武将でした。
その象徴として語り継がれているのが、織田信長との謁見(えっけん)における饅頭(まんじゅう)の逸話です。
織田信長が突き出した刀先のまんじゅうに食らいついた荒木村重
当時、摂津(せっつ:現在の大阪府北部および兵庫県南東部)を独自に支配していた国人衆(こくじんしゅう)は、織田信長に臣従する決断をします。
これを受け入れた織田信長は、国人衆を集めました。
織田信長は、集まった武将たちの器量を見極めるため、抜いた刀の先に饅頭(まんじゅう)を突き刺し、それを1人ひとりの鼻先へと突き出したのです。
居並ぶ国人衆は動けずにいましたが、ただ1人、すっくと立ち上がって前へ進み出たのが荒木村重でした。
荒木村重は織田信長に視線を向けたまま、刀の先に刺さった饅頭に直接口を寄せ、一気に食らってみせました。
この迷いのない動作と凄まじい豪胆さに、織田信長も驚嘆しました。
この一幕をきっかけに荒木村重は実力を発揮し、やがては摂津一国を任されるほどの武将へと成長したのです。
荒木村重は織田信長に距離を置いた
この行動は、たんなる勇気では説明しきれません。
ここに、織田信長に対する荒木村重の〝距離感〟が見て取れます。
織田信長という存在に対して、完全に従属するわけでもなく、かといって露骨に反抗するわけでもない。
この微妙な距離の取り方が、のちの謀反へと繋がったのではないでしょうか。
荒木村重の妻「だし」は戦国一の美人?
こうして摂津国を任されるまで成り上がった荒木村重でしたが、有岡城での籠城は1年に及び、ついに限界を迎えます。
この過酷な日々を最後までともに支えたのが、荒木村重の妻「だし」でした。
荒木村重の妻・だしは精神的支柱だった
だしは絶世の美女として語られることが多い人物です。
『信長公記』(しんちょうこうき)には「美人」と記され、他の文献にも「いまやうきひ」(今楊貴妃)と記されるほど評判の美女でした。
だしは、キリシタンとしての信仰を持ち、籠城の際は精神的支柱としての役割を果たしていたと考えられます。
籠城という極限状態のなかで人びとを支える存在であったことは、相当な精神力を示しています。
しかし、1579年9月、荒木村重は妻・だしを残し、わずかな側近のみを連れて有岡城を脱出しました。
荒木村重がだしを城に残した理由
荒木村重が妻のだしを城に残していったことは、後世、卑劣(ひれつ)なふるまいとして非難の対象となりました。
しかし、再起をかけるのであれば、身軽な状態で脱出し、援軍を求めるのが合理的です。
荒木村重は、生き残って反撃の機会を窺うために、あえて最愛の妻を城に残して脱出を強行したのではないでしょうか。
情よりも生存を優先するという荒木村重の価値観が、ここに明確に表れています。
処刑場へ向かう妻・だしの姿
だしは有岡城にとどまった荒木村重の一族とともに処刑されたと伝えられています。
処刑場へ向かう道中も、だしはキリシタンとしての誇りを失わず、静かに祈りを捧げていたといいます。
絶世の美女と謳われただしは、京都の六条河原(ろくじょうがわら)でその短い生涯を閉じました。
享年(きょうねん)23歳と伝えられています。
〝織田信長への否定〟としての生存
荒木村重は、織田信長を倒すためではなく、その価値観を否定するために生き延びました。
妻子を見捨ててでも茶道具を背負って逃げた行動も、戦国時代の常識の否定に見えてきます。
織田信長が望む結末(切腹や降伏)を徹底的に拒否し、どのような境遇になっても生きる道を選びました。
その結果、織田信長が本能寺で先に世を去り、荒木村重は生き残って豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)のそばで茶人として過ごした事実は、歴史の皮肉を感じさせます。
荒木村重は、織田信長を倒すためではなく、織田信長の価値観そのものを否定するために生き延びたのではないでしょうか。
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