【この記事のポイント】
- 坂本龍馬(さかもと・りょうま)は勝海舟(かつ・かいしゅう)を斬(き)ろうとしたが、広い知見に感銘を受け弟子入りし、視野を広げた。
- 勝海舟の海軍構想を継承し、坂本龍馬は亀山社中や海援隊を設立して実務で具現化した。
- 勝海舟は坂本龍馬と西郷隆盛をつなげ、幕末を動かす強固な協力関係が築かれた。
- 勝海舟と坂本龍馬の師弟関係はたんなる教育を超え、海を通じて日本を動かす共通の志で結ばれた。
- 坂本龍馬の死後、勝海舟は無血開城を実現し、共に目指した平和的変革を成し遂げた。
勝海舟を斬ろうとして弟子入りした坂本龍馬
勝海舟(かつ・かいしゅう)と坂本龍馬(さかもと・りょうま)のエピソードは、幕末の人間関係のなかでも特に人気が高いテーマです。
〝坂本龍馬が勝海舟を斬(き)ろうとしたが、逆に感化されて弟子入りした〟という話を聞いたことがある人も多いでしょう。
しかし、2人の関係の面白さは、その有名な出会いだけでは終わりません。
勝海舟と坂本龍馬は、師弟関係を築きながら、海軍操練所、亀山社中、海援隊、さらには幕末の政治変動へとつながる大きな流れのなかで互いに影響を与え合いました。
さらに、西郷隆盛との関係や、坂本龍馬の死のあとに勝海舟が実現した江戸無血開城まで視野を広げると、この2人のつながりが幕末史そのものに深く関わっていたことが見えてきます。
この記事では、勝海舟と坂本龍馬の代表的なエピソードを順にたどりながら、2人の関係がなぜ今も語られ続けるのかをわかりやすく解説していきます。
坂本龍馬が見た勝海舟の壮大なヴィジョンとは?
坂本龍馬が勝海舟を斬ろうとしたのに弟子入りしてしまったというエピソードは、とても有名です。
坂本龍馬は土佐を脱藩したのち、勝海舟と出会い、その門下に入って海軍や世界情勢について学ぶようになりました。
この関係が特別に面白いのは、たんなる師弟関係にとどまらないからです。
坂本龍馬は1862年ごろには土佐を離れ、ほどなく幕府の役人である勝海舟の海軍教育事業を手伝うようになったとされます。
つまり坂本龍馬は、ただ勝海舟の話を聞くだけでなく、日本の海軍構想そのものに触れる立場になっていったのです。
ここで坂本龍馬は、従来の藩単位の発想ではなく、もっと大きな視野で日本を考える勝海舟の影響を強く受けたと見られています。
坂本龍馬は勝海舟の知識の広さに驚き、家族に「日本第一の人物」と紹介したとされています。
勝海舟に弟子入りしたことが歴史的に大きいのは、坂本龍馬の視野を一気に広げたことです。
勝海舟は、海軍の整備や海外情勢への理解を通じて、日本をどう守り、どう変えていくべきかを考えていた人物でした。
坂本龍馬はその考えに触れることで、たんなる尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士ではなく、貿易や海運、近代国家のあり方まで視野に入れる人物へと変わっていきます。
のちに亀山社中や海援隊へつながる発想も、この時期に勝海舟から受けた影響抜きには考えにくいでしょう。
また、勝海舟に弟子入りしたという事実は、坂本龍馬が〝誰に学んだのか?〟を示す意味でも重要です。
坂本龍馬はしばしば天才的なひらめきで動いた人物のように描かれますが、実際には勝海舟という先行世代の知識人・実務家から、大きな刺激を受けています。
だからこそこのエピソードは、坂本龍馬一人の英雄物語ではなく、勝海舟が坂本龍馬を通して次の時代に考え方を手渡した話として読むと、ぐっと奥行きが増します。
つまり、勝海舟に弟子入りしたことは、坂本龍馬の人生の転機であると同時に、幕末史の大きな分岐点でもありました。
勝海舟と坂本龍馬のエピソードが今も語られるのは、〝若い志士が1人の先見的な師と出会って視野を変えられる〟という強い物語性があるからです。
そしてその出会いは、たんなる美談ではなく、のちの神戸海軍操練所や海援隊、さらには幕末の政治変動へもつながっていく力を持っていたのです。
勝海舟は坂本龍馬にどのような影響を与えた?亀山社中から海援隊へ
勝海舟と坂本龍馬のエピソードのなかでも、2人の関係が具体的な形になって表れたのが、亀山社中から海援隊へつながる流れです。
坂本龍馬は勝海舟に弟子入りし、神戸海軍操練所で海軍や航海の考え方を学びました。
しかし、神戸海軍操練所は短期間で閉鎖されてしまいました。
その後の1865年に、坂本龍馬が薩摩藩の後援のもと長崎で亀山社中をつくりました。
つまり、亀山社中の設立は突然の思いつきではなく、勝海舟のもとで学んだ経験の延長線上にあったのです。
亀山社中は、たんなる私的な仲間集団ではありませんでした。
高知県立坂本龍馬記念館の解説では、坂本龍馬は商才を発揮しながら長州藩支援や海運活動を進めており、亀山社中はその実働拠点だったとされています。
また、薩摩藩名義で購入した船や武器を長州へ運ぶなど、薩長を結びつける役割を果たしていました。
ここで重要なのは、坂本龍馬が勝海舟から学んだ〝海を使って日本を動かす〟という視点が、亀山社中で実践段階に入ったことです。
また、勝海舟との関係を考えると、亀山社中は勝海舟の思想を坂本龍馬が民間の立場で形にしたものと見ることもできます。
神戸海軍操練所の閉鎖後、坂本龍馬は勝海舟の斡旋(あっせん)で薩摩藩の庇護(ひご)を受け、長崎で亀山社中を設立したとされています。
勝海舟自身が長崎の人脈を持っていたことや、海軍教育事業から民間的な航海・交易活動へ発想が接続していく流れを考えると、亀山社中の設立には勝海舟の影響がかなり色濃く残っていたと言えるでしょう。
その後、亀山社中は海援隊へと改称されます。
1867年に後藤象二郎との会談を経て坂本龍馬が土佐藩に復帰し、それに伴って亀山社中は海援隊となり、坂本龍馬が隊長に就任しています。
脱藩罪が許されて亀山社中が海援隊に改編され、その際に「海援隊約規」が定められました。
つまり、亀山社中は私的な実験的組織、海援隊はより公的性格を持つ組織へ変貌(へんぼう)したと見ることができます。
この流れが興味深いのは、勝海舟と坂本龍馬のエピソードが、師弟によくある美談で終わっていない点です。
勝海舟は坂本龍馬に海軍や世界情勢の見方を教え、坂本龍馬はそれを自分の行動力で具体化しました。
そして亀山社中から海援隊へという展開のなかで、坂本龍馬は海運・交易・政治工作を結びつける実務家へと成長していきます。
だからこそ、このエピソードは〝師匠に学んだ若者が、学んだことを時代のなかで具体化した話〟として、今も人気が高いのだと思います。
勝海舟と坂本龍馬を西郷隆盛はどう見ていた?歴史をつくった3者の関係
ところで、西郷隆盛は、勝海舟と坂本龍馬の2人をどう見ていたのでしょうか?
西郷隆盛は坂本龍馬と直接関わっただけでなく、その背後にいる勝海舟の価値もよく理解していた人物です。
実際、神戸海軍操練所が閉鎖されたあと、勝海舟は坂本龍馬ら塾生の身柄を薩摩藩に頼み、西郷隆盛が彼らを保護したとされています。
これはたんなる人助けではありませんでした。
西郷隆盛が勝海舟の人材育成や坂本龍馬たちの実務能力を高く見ていたからこそ可能になった動きだったのです。
坂本龍馬と西郷隆盛の関係でよく知られているのが、坂本龍馬の「西郷評」です。
坂本龍馬は師の勝海舟に対して、西郷隆盛という人物は「釣り鐘」(つりがね)にたとえられるような底知れなさを持つと語ったと伝えられています。
これはたんなる人物描写ではなく、坂本龍馬が西郷隆盛を非常に大きな器の人物として見ていたことを示す有名なエピソードです。
そして、この出会いの背景には、勝海舟が西郷隆盛を高く評価していたことがあったと紹介されています。
つまり、坂本龍馬が西郷隆盛に関心を持ったきっかけそのものに、すでに勝海舟の視点が入り込んでいたのです。
逆に、西郷隆盛が坂本龍馬をどう見ていたかについても、後世よく引かれる評価があります。
西郷隆盛は坂本龍馬について、その度量の大きさを高く買っていたと伝えられています。
厳密には後世に広く引用される形で有名になった言葉ですが、少なくとも西郷隆盛が坂本龍馬をたんなる脱藩浪士としてではなく、大きな構想力を持つ人物として見ていたことは、薩摩が亀山社中を支援し、寺田屋事件後も坂本龍馬を保護した流れを見れば容易に理解できます。
坂本龍馬は薩摩にとって便利な仲介者だっただけでなく、西郷隆盛の目にも将来性のある人物として映っていたのでしょう。
また、西郷隆盛の評価を考えるときに重要なのは、西郷隆盛が勝海舟に対しても強い敬意を抱いていたことです。
幕末の政局では、勝海舟は幕府側、西郷隆盛は薩摩側という対立軸に立ちながら、最終的には江戸無血開城へつながる信頼関係を築いていきます。
そこへいたる前段階として、勝海舟が育てた坂本龍馬たちを西郷隆盛が保護し、その能力を活用したという事実は大きいと思われます。
つまり、西郷隆盛にとって、勝海舟と坂本龍馬はどちらも〝日本を動かす実務と構想を持つ人材〟だと評価されていたのです。
そうした西郷隆盛の評価という切り口から見ると、勝海舟と坂本龍馬の関係は立体的になります。
勝海舟は坂本龍馬を育て、西郷隆盛はその坂本龍馬を受け止め、必要な場面で支えました。
そして、西郷隆盛自身もまた、勝海舟の先見性や坂本龍馬の器量を理解していたからこそ、この3者の関係は幕末史のなかで特別な意味を持ってくるのです。
勝海舟と坂本龍馬のエピソードが今も人気なのは、それが2人だけの物語ではなく、西郷隆盛のような大人物からの評価まで含めて、時代を動かした人間関係の連鎖として読めるからなのだと思います。
勝海舟と坂本龍馬の信頼関係はどう深まった?
勝海舟と坂本龍馬のエピソードが今も語られるのは、2人の関係がたんなる〝弟子入り〟で終わらず、本物の信頼関係へ深まっていったからです。
坂本龍馬は出会った当初から勝海舟に強く傾倒し、1863年3月20日付の姉・乙女宛の書簡で、勝海舟を「日本第一の人物」と書いています。
さらに同年5月17日付の手紙でも、自分が勝海舟の門人となり「ことの外かわいがられ」ていると、かなり誇らしげに書いています。
つまり、坂本龍馬は、勝海舟をたんなる知識人としてではなく、自分の人生を変えるほどの師として見ていたことは明確です。
一方で、勝海舟は、坂本龍馬をたんなる若い門弟の1人として扱っていたわけではありません。
坂本龍馬は神戸海軍操練所の設立に深く関わり、勝海舟の構想を現場で支える存在になっていきました。
神戸海軍操練所が閉鎖されたあとも、勝海舟は行き場を失った坂本龍馬たちを薩摩側に託し、その後の活動への道を拓きました。
こうした動きの背景には、勝海舟が坂本龍馬を〝使える若者〟と見ていただけではなく、自分の考えを託せる存在として一定の信頼を寄せていたことがあります。
この信頼関係が興味深いのは、師弟でありながら、しだいに〝いっしょに時代を動かす関係〟へ変わっていった点です。
最初は勝海舟が坂本龍馬に海軍や世界情勢を教える側でしたが、やがて坂本龍馬はその考えを自分なりに実践していきます。
亀山社中、のちの海援隊はまさにその象徴で、勝海舟が示した大きな構想を、坂本龍馬が現実の行動に落とし込んでいった結果とも言えます。
つまり、2人の信頼関係は、先生と生徒という縦の関係だけではなく、同じ未来を見て動く横の協力関係にまで発展したのです。
勝海舟は幕臣という立場でありながら、土佐脱藩浪士の坂本龍馬を育て、薩摩につなぎました。
これは幕府の論理だけで動く人物なら取りにくい行動ですし、坂本龍馬の側もまた勝海舟の考えを受け継ぐようにして、藩を超えた立場で動いていきます。
互いに立場は違っていても、〝日本をどうするか?〟を考える視野の広さでつながっていたからこそ、この関係は深まったのでしょう。
若い坂本龍馬が勝海舟に学び、勝海舟が坂本龍馬を認め、そこから亀山社中や海援隊、さらには薩摩との結びつきへつながっていく——
この積み重ねがあるから、2人の関係は〝幕末屈指の師弟関係〟として今も語られ続けるのです。
坂本龍馬が勝海舟の江戸無血開城を導いた?
勝海舟と坂本龍馬のエピソードで印象がかなり強いのが、坂本龍馬の死、その後の江戸無血開城です。
坂本龍馬は1867年11月15日、京都の近江屋(おうみや)で中岡慎太郎(なかおか・しんたろう)とともに襲撃され、命を落としました。
大政奉還(たいせいほうかん)のあと、日本の行方がまだ定まらない時期の暗殺で、江戸無血開城を見届ける前に亡くなっています。
江戸無血開城は坂本龍馬の死の翌年、1868年3月に勝海舟と西郷隆盛の会談によって実現しましたが、ここへいたる流れに坂本龍馬は深く関わっていたのでした。
坂本龍馬は生前、〝できるだけ大きな内戦を避けて新しい体制へ移る〟ことを志向していましたが、江戸無血開城は、こうした坂本龍馬の志向と軌(き)を一(いつ)にしています。
坂本龍馬は勝海舟に学び、武力一辺倒ではなく海軍力、交易、政治交渉を組み合わせて時代を動かそうとしました。
その意味で、勝海舟が江戸を戦火から守った無血開城は、坂本龍馬が目指していた流血を最小限にしようとした志向と確実に響き合っています。
これは勝海舟と坂本龍馬の共同作業ではないにせよ、師弟関係の延長線上に見ることができます。
一方、坂本龍馬は、その死後も、勝海舟のなかで大きな存在であり続けました。
一般向けの歴史解説でも、勝海舟は坂本龍馬のような若い人材に大きな期待をかけていたと言われます。
勝海舟にとって坂本龍馬は、たんなる弟子ではなく、自分の考えを次の時代に実践できる若者の1人でした。
だからこそ、坂本龍馬の死は勝海舟にとって大きな損失だったはずです。
しかしその後、勝海舟は幕府側の代表として西郷隆盛と向き合い、最悪の内戦を避ける方向へ動きました。
坂本龍馬がいなくなったあとも、勝海舟は自分の役割を最後まで果たしたのです。
これは言い方を変えれば、勝海舟と坂本龍馬のエピソードは坂本龍馬の死で終わらなかったことになります。
出会い、弟子入り、亀山社中・海援隊へとつながる行動、そして坂本龍馬の死。
そして、勝海舟が江戸無血開城を成し遂げたことで、2人の師弟関係はたんなる個人の絆を超え、幕末の大きな流れをつくりだしたのです。
坂本龍馬は新しい時代の可能性を体現した若者であり、勝海舟はその時代を現実に着地させた年長者だった、と見ることもできるでしょう。
つまり、坂本龍馬の死と江戸無血開城を並べて見ると、勝海舟と坂本龍馬の関係の意味がより深くわかるのです。
坂本龍馬は江戸開城を直接見ていませんが、その前に勝海舟から学び、平和的な変革を模索し続けました。
そして坂本龍馬の死後、勝海舟は江戸無血開城という形で、流血を避ける歴史的な交渉を成し遂げます。
だからこそ、この2人のエピソードは今も師弟関係としてだけでなく、幕末という激動の時代をどう終わらせ、どう次へつないだかを考える物語として語り継がれているのだと思います。
まとめ
勝海舟と坂本龍馬のエピソードは、たんなる歴史的有名人同士の美談ではありません。
坂本龍馬が勝海舟に弟子入りしたことをきっかけに、海軍や世界情勢への視野を広げ、やがて亀山社中や海援隊の設立へつなげていった流れを見ると、勝海舟の影響が坂本龍馬の行動を大きく変えたことがよくわかります。
また、西郷隆盛との関係を見れば、この師弟関係は2人だけで閉じたものではなく、幕末の主要人物を結ぶ人脈の一部でもありました。
さらに、坂本龍馬の死のあとに勝海舟が江戸無血開城を実現したことを考えると、2人の関係は幕末史の流れと重なっています。
坂本龍馬は新しい時代の可能性を切り開こうとした人物であり、勝海舟はその時代を現実の政治交渉で着地させた人物だと言えるでしょう。
だからこそ、勝海舟と坂本龍馬のエピソードは今も多くの人を惹きつけます。
2人の出会いと信頼関係を知ることで、幕末という時代が、出来事だけでなく人間同士のつながりによって動いていたことがより深く見えてくるはずです。
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