佐久間信盛はなぜ追放された?非情な最期と子孫がつないだ家の再起

大名/武士

佐久間信盛(さくま・のぶもり)は、織田信長に早くから仕えた〝古参の重臣(老臣)〟です。

ところが晩年、織田信長から厳しい叱責(しっせき)を受け、ついには追放されてしまいました。

戦国時代の武将といえば、合戦で討ち死にするイメージが強いかもしれません。

しかし、佐久間信盛は、〝戦場で死んだ武将〟ではなく〝評価が失墜し失脚した武将〟として語られることが多い点で印象に強く残ります。

この記事では、佐久間信盛の人生を〝追放〟〝最期〟〝子孫〟というキーワードに即して見ていきたいと思います^^

佐久間信盛の追放が示す戦国のリアル!成果が出なければ「古参」も切り捨てる織田信長の苛烈さ

佐久間信盛に突きつけられた「19ヶ条の折檻状」とは?

結論から言うと、佐久間信盛の追放は〝一度の大失敗で即刻追放〟ではなく、織田信長から見て〝成果が出ない状態が長く続いたから追放〟という側面が大きいと理解できます。

佐久間信盛が深く関わった戦いとしてよく挙げられるのが、石山本願寺(いしやまほんがんじ)をめぐる長い戦いです。

この戦いは短期決戦になりにくく、前線の緊張が続く一方で、当事者ではない人間から見ると「いつ決着するのか?」「どれだけ進展しているのか?」という状況が見えにくい戦いでした。

そうした状況であるにもかかわらず、織田信長は佐久間信盛に〝結果〟を求めました。

織田信長の家臣には、明智光秀や羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)など、〝目に見える成果〟を積み上げている武将がいました。

そのため、織田信長の目には、佐久間信盛の働きが相対的に〝鈍く〟映った可能性があります。

このとき、織田信長が佐久間信盛に突きつけたとされるのが、かの有名な「19ヶ条の折檻状」(せっかんじょう)です。

折檻状とは〝厳しいダメ出し状〟のことで、なぜ織田信長が佐久間信盛を追放したのかを具体的に窺い知ることができる文書として知られています。

その内容は、ざっくり言えば次のようなポイントに集約されます——

  • 長い期間、前線や城攻めに関わっていたのに、納得するような戦功がない
  • 向こう(本願寺)が自然に折れるだろう、と待ち〟の姿勢になっていないか?
  • うまくいかないなら、状況を報告して手を打つべきなのに、その姿勢に欠ける
  • 他の武将が成果を出しているのだから奮起すべきだ

つまり、織田信長の怒りは〝負けた〟ことよりも、〝勝つための動きが鈍い〟〝状況を変えようとしない〟と見える点に向いているのです。

戦場では、たんに勇敢かどうかだけでなく、交渉・情報・兵站(へいたん:物資や人の流れ)も含めた〝動かす力〟が問われます。

織田信長はそこに非常に厳しい基準を置き、成果が出ないと判断した佐久間信盛を、重臣でありながらも追放したのです。

佐久間信盛の追放は、織田信長の厳しさがはっきりとわかる象徴的な出来事として語られています。

ただし、留意すべきは、織田信長に追放されたからといって、〝佐久間信盛が本当に無能だった〟と断言できないことです。

織田信長の評価が異様に苛烈だった可能性、戦いの性質が成果を見えにくくした可能性、他の家臣との関係や織田信長の政治判断といった織田側の内部事情による状況の変化など、複数の視点から考えなければ、本当のところはわからないでしょう。

とはいえ、どの視点を採るにしても、〝織田信長が〈成果が乏しい〉とみなして追放した〟という点は、多くの歴史解説で共通しています。

古参の重臣すら切り捨てる織田信長の徹底した成果主義

ここで読者のなかには、「佐久間信盛は古参の重臣なのに、そんなに簡単に追放するの?」と疑問を持たれる方がいるはずです。

戦国の主従関係は、現代の会社のように終身雇用〟ではありません。

恩賞(領地)や役目は、基本的に〝働きに見合うもの〟として与えられます。

だから、主君が〝働きに見合っていない〟と判断すれば、古参でも追放されることがありました。

織田信長の場合、その判断がとくに早く、そして厳しいと感じられる例が多いのです。

佐久間信盛の追放が語り継がれるのは、その点で強烈な織田信長らしさ〟が感じられるからだと思います。

「古参」という肩書きは、〝自分を守ってくれる鎧(よろい)〟ではなく、たんに〝背中に積もる時間の重さ〟だったのかもしれません。

どんなに背中に時間の重さが積もっても、結果が出なければ追放されてしまう……。

佐久間信盛の追放を思うたびに、戦国の風は冷たく厳しいと、私は思ってしまいます。

佐久間信盛が迎えた最期:討死よりも残酷な〝罰〟

佐久間信盛は追放されたあと、ほどなくして亡くなったと言われています。

しかし、亡くなった年や場所については、資料によって異なります。

佐久間信盛の追放先として多く挙がるのが、高野山(こうやさん)です。

戦国時代には、政治的に失脚した武将が高野山などに身を寄せるケースがしばしばありました。

つまり、高野山は、戦国時代において、真言密教の拠点としてのみならず、権力構造から脱落した者が〝身を引く場所〟〝身を置かざるをえない場所〟でもあったわけです。

佐久間信盛の場合も、〝追放の命を受けたあとは表舞台から姿を消し、静かに亡くなった〟とたいてい語られます。

ここで押さえておきたいのが、佐久間信盛の最期が〝華々しい討死〟ではない点です。

合戦で討ち死にした武将は〝華々しく散った〟として、物語としては明快です。

しかし、佐久間信盛のように、評価を落とし、追放され、周囲から遠ざけられ、最期を迎えるケースは、逆に戦国時代のリアルさ〟を強く感じさせます。

私たちは、戦国時代を〝強い者が勝つ〟という単純な図式で見がちです。

でも実際には、〝勝つ/負ける〟だけではなく、〝評価される/評価されない〟〝信頼される/見放される〟という人間関係における基準で運命が決まる時代でもありました。

佐久間信盛の最期は、その戦国時代の冷たさや厳しさを教えてくれるように思います。

もう1つ押さえておきたいのが〝追放後の生の意味〟です。

討死は一瞬で終わります。

一方、追放は、生きている時間〟そのものが罰になりえます。

役職も名誉も奪われ、昔と同じ景色のなかにいても、かつての自分に戻ることは決してありません。

佐久間信盛がどんな心境だったのかは、私たちには確かなことはわかりません。

けれど、戦国の武将にとって〝主君の評価〟が自己の存在の源泉だったことを思うと、追放がどれほど重い意味を持ったかは想像できます。

勝ち負けではなく、評価で終わる人生がある――

その事実に、戦国時代をいちばんリアルに感じます。

佐久間信盛の子孫が繋いだ家名のバトン

〝追放=家の断絶〟とイメージされることがありますが、佐久間信盛の場合、佐久間家が完全に途絶えたとは言い切れません。

佐久間信盛の長男・佐久間信栄(さくま・のぶひで)は、父とともに高野山へ入りました。

さらに、父の死後に赦免(しゃめん:許されて戻ること)され、織田信忠に仕えたとされています。

そそて、本能寺の変のあとは織田信雄に従ったとされます。

織田信雄の下では蟹江城主となり、小牧・長久手の戦いのときは伊賀・伊勢方面で羽柴勢と交戦しました。

父・佐久間信盛は織田信長によって追放され、政治の表舞台から降ろされました。

しかし、子・佐久間信栄は、ふたたび政治の舞台へ戻りました。

つまり、子・佐久間信栄において、佐久間家を〝立て直す〟チャンスを得たということです。

いったんは表舞台から退いた家の子であっても、周囲の取り立てや時代の流れ次第で、別の主君のもとで生き残る道が開けることがあります。

戦国時代には、家名を守るために、恥を呑み、頭を下げ、ときには関係を結び直すという現実的な選択が繰り返されました。

佐久間信盛の追放は佐久間信盛という1人の人生の終わりではあっても、それは必ずしも佐久間家の終わりを意味しているわけではありません。

佐久間信栄という次なる人間が、違う形で佐久間家を継続させていったと言えるのです。

戦国時代における家は、一度の失脚で終わってしまうこともあれば、別の主君のもとで立て直すこともありました。

家とは、血筋だけでなく、家臣団や土地の縁、婚姻関係など、いくつもの要素で成り立つものです。

それらの要素による成り立ち方は一定であるとは限りません。

変わることもあります。

佐久間家もまた、追放という強い逆風のなかで、要素による成り立ち方を変えながら次の道を探した――

そう捉えると、子孫の話は〝戦国時代の生存戦略〟の一部として読めてきます。

家は、戦に勝った日だけでできているわけではありません。

戦に負けた日や、苦難に耐えた日や、どん底から立て直した日でできています。

その日々を支えているのが子孫です。

とすると、佐久間家の続きは、子・佐久間信栄の行動履歴から読み取れる〝佐久間家を立て直す〟という意志のなかに息づいていた気がします。

佐久間信盛まとめ

以上、見てきたように、佐久間信盛は織田信長の古参の重臣でありながら、晩年に追放されました。

追放の背景には、長く関わった戦いで目に見える成果が乏しい〟と織田信長に判断され、折檻状で厳しく責められたことがありました。

追放後は、まもなくして最期を迎えたようですが、その年や場所の詳細については資料によって異なります。

一方、佐久間家は、佐久間信盛の追放によって断絶したわけではなく、子・佐久間信栄になって家の継承というバトンは形を変えつつも受け継がれていったと考えられ、よって子孫は続いていったと推測できます。

それにしても、戦国武将にとって、「古参」という言葉は誇りでもあったでしょうが、同時に重荷でもあったと思われます。

勝ち負けより先に、評価が人を切り分ける。

しかし、追放されても、必ずしも家名が消えるわけではなく、中身を変えて継承されていく——

佐久間信盛の追放劇は、戦国時代の冷たさと厳しさ、そして追放後の家の継承を支える子孫のしぶとさを感じさせてくれます。

▼佐久間信盛が登場する2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』のついて知りたい方は、こちらをクリック↓↓↓

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