戦場では「鬼柴田」と恐れられ、天下人・羽柴秀吉と覇権を争った猛将・柴田勝家(しばた・かついえ)。
その人生は、織田信長を支え続けた〝忠義〟と、妻・お市の方とともに最期を迎えた〝悲劇〟という言葉によって語られています。
しかし、その人生を別の角度から見ると、駆け引きが苦手な不器用なほど真っすぐな性格や、娘たちを命懸けで守り抜いた温かい父親としての顔がありました。
そして、柴田勝家が命を懸けて守り抜いた3人の娘たち(茶々、初、江)は、のちの豊臣家、そして徳川家の要となり、日本の歴史を陰で支えていくのです。
この記事では、勇猛な武将というイメージだけでは語り尽くせない柴田勝家の真の魅力に迫ります。
柴田勝家の性格、お市の方との愛、子孫の意外な活躍、そして家紋に込められた絆の物語をわかりやすくひも解きます。
柴田勝家の生涯をたどれば、戦国武将の強さとは武力だけではない、「義」と「愛」にあることが見えてくるはずです。
柴田勝家は何をした人?
柴田勝家は、織田信長に長く仕えて大きな働きをした戦国武将です。
生まれは1522年ごろとされ、若いころは尾張(おわり:現在の愛知県)で育ち、武勇に優れていたことから早くから頭角(とうかく)を現しました。
柴田勝家は、織田信長の父・織田信秀(のぶひで)に仕えることになり、織田信秀が逝去したあとは、織田信長の弟・織田信行(のぶゆき)の家老になります。
織田信長と織田信行が家督をめぐって争っていたころ、柴田勝家はいったん織田信行に味方しましたが、その後は織田信長を支える立場へと戻り、誠実な働きぶりを見せることで信頼を得ていきました。
織田信長が勢力を広げていくなかで、柴田勝家は北陸地方の攻略を任されるようになり、越前や加賀といった広い地域を治める役目を担いました。
戦場では勇猛果敢な武将であったことから敵からも味方からも恐れられ、「鬼柴田」という力強い異名がつけられたほどです。
柴田勝家は重臣としての地位を確立していきますが、1582年に「本能寺の変」が起こり、織田信長が明智光秀によって討たれると状況は一変します。
織田信長亡きあとの後継をめぐって羽柴秀吉と対立するようになり、会議の場である「清洲会議」(きよすかいぎ)でも羽柴秀吉と意見が分かれ、緊張が高まります。
なお、清須会議では柴田勝家と織田信長の妹であるお市の方の結婚も決められました。
織田家と政略結婚することで、柴田勝家の不満を抑えようとする意図がありました。
しかし、その後も両者の緊張は高まり、ついに1583年の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で正面からぶつかります。
賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉側の勢いが勝り、柴田勝家は敗れて北ノ庄城(きたのしょうじょう:福井県)へ退きます。
そして同年4月、妻であるお市の方とともに自害し、波乱に満ちた生涯を閉じました。
劇的で悲しい最期ではありますが、織田信長を長い年月にわたり支え続けた忠義と武勇は、今でも多くの人に語り継がれています。
柴田勝家は、忠誠心に厚く、主君に対して義理堅く生きた人物でした。
裏切りや謀(はかりごと)が渦巻く戦国の世にあっても、柴田勝家は自分の筋を決して曲げることなく歩み続けたのですね。
柴田勝家の性格は不器用なほど真っすぐ!
柴田勝家の性格は古風で誠実、そして武士らしく真っすぐであったことが知られています。
一度は織田信長へ背いたものの、再び忠誠を誓ってからは揺らぐことなくその義を尽くし続けました。
この誠実さから、一本気(いっぽんぎ)で嘘のつけない性格だったことがうかがえます。
さらに、柴田勝家は実直で不器用な一面も持ち、駆け引きや策略よりも、真正面から挑む武士らしい生き方を選択していました。
のちに対立することになる羽柴秀吉は、柔軟で社交的な性格であったため、柴田勝家と対照的な部分が多く、その違いがやがて大きな争いにつながったとも言われています。
勇猛な武将という印象の柴田勝家ですが、一方で家族や家臣を大事にしていたと伝わっています。
柴田勝家は60歳の頃に、「小谷城の戦い」で浅井長政(あざい・ながまさ)に先立たれたお市の方を妻として迎えました。
お市の方は35歳前後で歳は離れていましたが、優しく振る舞い、夫婦仲は良かったとされています。
北ノ庄城で自害する際には、お市の方は柴田勝家と運命を共にすることを選びましたが、3人の娘を脱出させることに成功しました。
「鬼」と呼ばれるような武将でありながら、家族を大切にする温かな一面も、柴田勝家の魅力として語り継がれています。
誠実で実直な柴田勝家は、ときに損をする場面も多かったのかもしれません。
それでも損得ではなく筋を通し、家族にも家臣にも誠実であったため、多くの人に慕われたのだと思います。
柴田勝家の姿は、真っすぐな生き方がいかに尊いかを改めて感じさせてくれます。
柴田勝家の子孫は?:旗本となった養子と徳川・豊臣へ嫁いだ3姉妹
柴田勝家には、2人の実子がいましたが、いずれも早くに亡くなってしまいます。
お市の方とのあいだに実子もいなかったことから、一時は柴田家の血筋は途絶えたとされています。
ただし、柴田勝家の養子の一人・柴田勝政(かつまさ)の子である柴田勝重(かつしげ)が生き延び、家名を継ぐことに成功しました。
賤ヶ岳の戦いの際、勝重はまだ幼かったため北ノ庄から脱出し、その後は江戸幕府に旗本として仕え、武功を立てています。
したがって血脈としての子孫は残らなかったものの、家名そのものは柴田勝重によって受け継がれました。
また、柴田勝家の義理の子となるのが、自害の際に逃がした3人の娘です。
名前は、茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう)です。
3姉妹は浅井長政とお市の方の実子であり、柴田勝家と血のつながりはありませんが、その後の日本史に大きな影響を与えています。
茶々は、豊臣秀吉の側室となり豊臣秀頼を出産しました。
初は、京極家(きょうごくけ)に嫁いで名門を支えました。
江は、徳川秀忠の正室として徳川家光を生み、徳川家に貢献しました。
このため、柴田勝家の血筋そのものは残っていないものの、義理の父として徳川家や豊臣家と深い縁を結ぶことになったのです。
歴史上の重要人物と縁を結んだ柴田勝家の人生が、日本史に与えた影響は非常に大きかったと言えます。
家族を何より大切にした柴田勝家の思いは、義理の娘たちにも確かに受け継がれたのでしょう。
柴田勝家が命を懸けて守った3姉妹が、その後それぞれの立場で忠義を尽くして生きたことには深いつながりを感じます。
柴田勝家の家紋に込められた絆とは?
丸に二つ雁金(出典:wikipedia)
柴田勝家の家紋は「丸に二つ雁金」(まるにふたつかりがね)と呼ばれ、丸のなかに二羽の雁(がん)を配したものです。
鳥をモチーフとした家紋は、矢のように空を駆ける姿が勇壮さや勢いを象徴するとして武家に好まれていました。
雁(かり)は越冬のために飛来する渡り鳥で、日本では古くから馴染み深く、独特の鳴き声と群れで飛ぶ姿から〝朗報を運ぶ縁起の良い鳥〟ともされてきました。
また、一族が連携して移動する点から、「結束」を表す象徴として家紋に用いられたとも言われています。
中国・漢の時代には、皇帝・武帝(ぶてい)の使者が捕虜となった際、雁の足に手紙を結んで祖国へ自分の無事を伝えたという故事もあり、雁は特別視されていました。
「二つ雁金」は、上下に雁が配置されており、上を雄、下を雌とする“一対”の形が特徴です。
この姿は、柴田勝家とお市の方の仲睦まじい関係を象徴しているとも言われます。
柴田勝家ゆかりの越前地方では、柴田勝家とお市の方を慕う人も多く、空を飛ぶ二羽の雁を見ると、その姿を柴田勝家夫婦に重ねて偲(しの)ぶという話も伝わっています。
柴田勝家が家族や家臣だけでなく、地域の人びとからも深く敬愛されていたことが伝わってきます。
柴田勝家は勇猛な武将でありながら、家族を大切にした優しい人物だった
柴田勝家の家紋には雁が描かれていますが、仲間とともに空を真っすぐ進む雁の姿は、柴田勝家が歩んだ力強い人生そのもののように感じられます。
柴田勝家は「鬼柴田」と呼ばれるほどの勇猛な武将でありながら、誠実で真っすぐな性格、家族を大切にする優しさを併せ持つ人物でした。
織田信長を支え、北陸を治め、羽柴秀吉と覇権を争ったその生涯は、戦国の荒波を真っすぐに生きた男の物語そのものです。
柴田勝家の人生を辿ると、戦国武将の強さとはたんなる武力ではなく、最後まで揺るがぬ「義」や「大切な人を守る思い」にこそあるということが理解できますね^^
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