小栗上野介忠順はなぜ殺された?理不尽な最期と子孫の現在を徹底解説!

小栗忠順 幕臣(幕末)/藩士/志士

【この記事のポイント】

  • 江戸幕府の幕臣だった小栗忠順(おぐり・ただまさ)は、卓越した頭脳と実務能力で薩長からもっとも恐れられた。
  • 徳川埋蔵金伝説に目がくらんだ軍の暴走で、正式な手続きもないまま理不尽に処刑された。
  • 最期まで潔い態度を貫き、小栗忠順を慕う群馬県権田村の人びとによって大切に葬られた。
  • 横須賀製鉄所の建設など近代化の礎を築き、その死は国家的な大損失と評されている。
  • 子孫は漫画家の小栗かずまた氏で、現在は名誉が回復し、大河ドラマの主人公ともなった。

小栗上野介忠順とは?

小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)は、幕末の薩長(さっちょう)がもっとも恐れた幕臣(ばくしん)です。

とはいえ、それほど有名ではありません。

私も、小栗上野介忠順が2027年のNHK大河ドラマの主人公になるまでは、おそらくその名前を聞いたことはなかったように思います。

「上野介」と言えば、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で非業の死を遂げた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)の方が有名でしょう。

幕府内では縁起が悪いとされた名をあえて受け入れたのは、小栗忠順の気概の現れだと言われています。

小栗忠順は薩長が恐れるほどの業績を上げ続けたがために、あまりに理不尽な最期を迎えました。

この記事では、小栗忠順の最期の真実に迫りつつ、さらに、現代に続く子孫について解説します^^

小栗忠順はなぜ殺された?新政府軍兵士による理不尽な処刑

小栗忠順が薩長に警戒された最大の理由は、武力ではなく頭脳でした。

幕府側にありながら西洋事情に通じ、財政・軍備・外交のすべてを理解していた実務家だったからです。

つまり、小栗忠順は、倒幕後に生かしておいたとしても、敵に回せばもっとも厄介な存在だとみなされていたのです。

そのため、小栗忠順は処刑されてしまいますが、実は彼の命を奪ったのは、国家の緻密な戦略などではなく、現場にいた新政府軍による欲と焦りが引き起こした暴走でした

華々しく語られる維新の裏側で、1人の天才が、手続きすら無視した地方部隊の独断によってあっけなく抹殺されてしまったのです。

小栗忠順はなぜ殺された?①:兵士の欲が生んだ隠し金の幻想

小栗忠順を捕らえた東山道軍(とうさんどうぐん)の兵士たちが執着したのは、幕府の軍資金が権田村(ごんだむら:現在の群馬県高崎市)に運び込まれたというデマでした。

兵士たちには、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)として莫大な予算を動かしていた小栗忠順なら、必ず金を持っているはずだという、根拠のない思い込みがあったのです。

実際には、小栗忠順は村の整備のためにみずからのわずかな蓄えを投じていただけで、期待した黄金などなかったようです。

期待した金が出ない苛立ちと、誤認を認めたくない空気感が、小栗忠順への憎悪に変わっていったのではないかと推測できます。

小栗忠順はなぜ殺された?②:欲に目がくらんだ現場の暴走

小栗忠順の処刑は、新政府の中枢(ちゅうすう)に伺いを立てることもなく、わずか2日間という短期間で強行されました。

これは、この事件がいかに現場の矮小な事情で起きたかを示しています。

国家の未来を左右するはずの巨星が、目の前の欲に目がくらんだ兵士たちの手によって、道端の石を退けるように排除されたのです。

この救いようのない現場の暴走が、小栗忠順の最期をいっそう悲劇的なものにしています 。

小栗忠順の最期は潔く冷静!村人に大切に葬られる

小栗忠順の最期は、法の手続きを一切無視した理不尽な処刑によるものでした。

1868年5月、上野国(こうずけのくに)の権田村で、小栗忠順は東山道軍に捕らえられました。

無抵抗のまま烏川(からすがわ)の河原へ引き立てられた小栗忠順に、弁明の機会は一切与えられなかったのです。

小栗忠順の最期①:あまりにも潔く冷静な態度

処刑の直前、小栗忠順は取り乱すことなく、驚くほど穏やかな態度を崩しませんでした。

最後に言い残すことはないかと問われた小栗忠順は、自分の命を乞うのではなく、道連れにされた養子や家臣の助命を冷静に願い出ました。

その態度はあまりに堂々としており、小栗忠順の首を刎(は)ねた兵士たちすら、その潔(いさぎ)よさに言葉を失ったと伝えられています。

もはや道理が通じない時代が来たことを、小栗忠順は見ていたのかもしれません。

小栗忠順の最期②:権田村の人びとにひっそりと弔われる

小栗忠順が処刑されたあと、権田村の人びとは新政府軍の報復を恐れながらも、その遺骸(いがい)を収容しました。

彼らは小栗忠順が村にもたらした恩恵を忘れておらず、東善寺(とうぜんじ)の住職とともにひっそりと、しかし大切に葬りました。

中央でどのような汚名を着せられようとも、実際に接した権田村の人びとにとって、小栗忠順はどこまでも高潔な紳士であったのです。

国家の宝とも言える小栗忠順を亡き者にした軍の暴走に対する村人たちの静かな弔いが、この悲劇をわずかに救っています。

小栗忠順の死を嘆いた大村益次郎

新政府軍の軍制を築いた大村益次郎(おおむら・ますじろう)は小栗忠順の死を惜しんだと伝えられています 。

冷徹な合理主義者である大村益次郎にとって、小栗忠順は新しい国家建設に不可欠な知能でした。

現場の矮小(わいしょう)な欲によって国家の至宝が失われたことを大村益次郎は惜しんだのです。

小栗忠順が生きていたら明治政府の混乱は防げた!

小栗忠順は、世界のなかでの日本を冷徹に見つめる国際感覚を備えていました。

もしも小栗忠順が明治政府に加わっていれば、国家運営の多くをより合理的かつ迅速に実現させていたのではないでしょうか。

小栗忠順は生前、日本の近代化の礎を築いた

小栗忠順が建設した横須賀製鉄所は、明治以降の日本の近代化を支える巨大な礎(いしずえ)となりました。

この施設はたんなる造船所に留まらず、日本における近代的な機械工学や技術教育の原点となったのです。

小栗忠順はさらに、商社や株式会社につながる先進的な構想を次々と考案し、経済の近代化も主導しました。

生きていれば、こうした産業の種を多方面へ波及させ、欧米列強(おうべいれっきょう)と対等な国力を築いたでしょう。

小栗忠順は明治政府に秩序をもたらしていたはず

小栗忠順は生前、みずからが権力の中枢にあっても、国としての仕組みが正しく機能することのみに注力した人物でした。

もしも小栗忠順が明治政府の要職に就いていれば、特定の藩の利益ではなく常に日本全体の利益を優先し、藩閥政治(はんばつせいじ)による腐敗や利権争いによって混乱した初期の明治政府に秩序をもたらしていたはずです。

小栗忠順を失ったことは、新しい日本にとって、国家的な巨大な損失であったと言わざるをえません。

小栗忠順の子孫の現在:玄孫に小栗かずまた

小栗かずまたは人気漫画家

小栗忠順の直系の子孫は現代まで続いています。

小栗忠順の玄孫(やしゃご)の小栗かずまたさんは、漫画家として活躍されています。

小栗かずまたさんは、1997年から『週刊少年ジャンプ』で連載された『花さか天使テンテンくん』などのヒット作を持つ人気漫画家です。

現在も漫画家として第一線で活動しながら、小栗忠順の功績を世に広める「小栗上野介顕彰会」の顧問も務めています。

妻・道子ら家族は会津へ脱出

小栗忠順が権田村で捕えられる直前、妊娠中だった妻・道子ら家族は、村人の助けを得て会津方面へと脱出しました。

過酷な逃避行の末、道子は無事に娘・国子を出産。

小栗かずまたさんは、その国子のひ孫にあたります。

小栗忠順の名誉は現代になって回復

小栗忠順の玄孫である小栗かずまたさんは、現在でも横須賀製鉄所の記念行事などに参列し、小栗忠順の功績を語り継いでいます。

小栗忠順が最期を迎えた群馬県高崎市の東善寺では、今もなお多くの人びとがその徳を慕い、墓前に手を合わせています。

一時は「賊臣」(ぞくしん)の汚名を着せられながらも、小栗忠順の名誉は完全に回復され、ついには大河ドラマの主人公に選ばれました 。

非業の死から150年以上が過ぎた今、小栗忠順の評価は高まるばかりであり、その志は現代日本のなかに受け継がれています。

小栗忠順の名誉は、現代にいたって正当に評価され、回復されてきたということができるでしょう。

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