福島正則の死因は?心労?飲酒?暗殺?真相を探る!

福島正則 大名/武士

豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)子飼い(こがい)の武将といえば、市(いち)と虎(とら)です。

市は福島正則(ふくしま・まさのり)、虎は加藤清正(かとう・きよまさ)です。

2人は兄弟のように豊臣秀吉とその妻、寧々(ねね)に育てられたといいます。

この記事では、この福島正則について調べました。

「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍(しちほんやり)」として名を馳(は)せ、豊臣秀吉を父親のように慕(した)った福島正則。

関ヶ原の戦いでも、徳川方の一番槍(いちばんやり)という素晴らしい活躍です。

数々の武功により、広島藩(ひろしまはん)五十万石の初代藩主となりましたが、その後、改易(かいえき)されています。

福島正則が晩年に辿(たど)った道は、かつての栄光とは程遠いものでした。

なぜ福島正則は、あれほどの大名から転落したのでしょうか?

また、どのような最期を迎えたのでしょうか?

巷(ちまた)で囁(ささや)かれる死因の真相に迫ってみましょう。

福島正則の死因①:心労

福島正則の死因を語るうえで避けて通れないのが、精神的なダメージ、すなわち「心労」(しんろう)です。

関ヶ原の戦いで徳川方に味方し、勝利に大きく貢献しました。

そもそも福島正則にとって、敵は石田三成(いしだ・みつなり)であり、それが豊臣家(とよとみけ)を滅ぼす戦いだとは思ってもいませんでした。

石田三成を打倒し、豊臣政権の安泰を願って参戦したのです。

しかし、その願いも虚(むな)しく、大坂の陣(おおさかのじん)で豊臣家は滅亡します。

親同然だった豊臣秀吉が築いたものが崩れ去るのを、福島正則はただ見ていることしかできませんでした。

広島城の修築問題という罠

徳川幕府(とくがわばくふ)による徹底的な「福島潰し」は、ある日突然始まります。

1619年に台風で壊れた広島城を幕府の許可なく修理したことが、武家諸法度(ぶけしょはっと)違反とみなされたのです。

福島正則は必死に弁明しましたが、幕府の狙いは最初から福島正則の改易にあったのです。

結局、安芸(あき)・備後(びんご)五十万石という広大な領地を没収され、信州(しんしゅう)への転封(てんぽう)を命じられます。

この時代は徳川家康が没し、権力者は二代将軍・徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)になっていました。

関ヶ原の戦いに間に合わず、参戦すらできなかった徳川秀忠が、武功をあげた福島正則を潰したことになりますね。

福島正則と徳川秀忠の不思議な因縁(いんねん)のようなものを感じます。

領地没収と将来への不安

この左遷(させん)に近い仕打ちは、血気盛んな福島正則の心を激しく削りました。

余生を過ごす信州の地は、かつての領国(りょうごく)とは比較にならないほど狭く、家臣たちの生活を維持することすら困難な状況です。

福島正則は、多くの家臣を抱え、将来への不安をつのらせていました。

あれほど戦場で暴れ回った猛将が、一通の命令ですべてを奪われる現実。

現代のリストラにも似たものを感じずにはいられません。

福島正則の死因②:飲酒

「福島正則といえば酒」と言われるほど、酒癖の悪さは有名です。

黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)に仕えた母里太兵衛(もり・たへえ)に酒呑みの勝負で負け、名槍「日本号」(にほんごう)を取られたエピソードは、もはや伝説となっています。

有名な黒田節(くろだぶし)は、この伝説を歌にしたものです。

酒は飲め飲め、飲むならば、日の本一のこの槍を、呑み取るほどに呑むならば、これぞ真(まこと)の黒田武士(くろだぶし)

この日本号は豊臣秀吉に賜(たまわ)った日本一の槍でしたが、福島正則にとっては、楽しんで飲んでいた頃の失敗談でした。

しかし、信州に転封(てんぽう)されてからの飲酒は、もはや楽しむためのものではありませんでした。

現実逃避としての酒

何もすることがなくなった隠居生活のなかで、福島正則が頼れるのは酒しかなかったのでしょう。

かつての戦友たちが亡くなり、徳川の世が盤石(ばんじゃく)になっていくなかで、福島正則は自分の居場所を失います。

日夜浴びるように飲んでいたことが、体力を著しく奪い、死期を早める大きな要因となるばかりか、死に直結する要因になったであろうことは容易に想像できます。

アルコール依存症に近い状態だったとも推測されます。

酒に溺れた猛将の孤独

福島正則の飲酒は、武勇伝の影に隠れた〝寂しさの裏返し〟によるものだったのではないでしょうか。

当時は1620年代ですから、福島正則は60歳前後です。

豊臣秀吉は20年以上前に亡くなり、盟友の加藤清正もすでにいません。

晩年の酒は福島正則の命を蝕(むしば)んでいきました。

どんなに飲んでも消えない後悔、寂しさ、悲しみが、そこにはあったのでしょう。

福島正則の死因③:暗殺

公式の記録では病死とされていますが、一部では暗殺説も根強く囁かれています。

徳川幕府にとって、豊臣恩顧(おんこ)の有力大名は、たとえ隠居の身であっても目障(めざわ)りな存在でした。

特に福島正則のような、いつ爆発するか分からない性格の持ち主は、最優先の監視対象でした。

毒殺説の背景

福島正則が亡くなった際、幕府の検使(けんし)が到着する前に、遺体を火葬(かそう)したという奇妙な記録があります。

当時、大名の死は、幕府によって検死されるべきだとされており、その前に火葬にするとは、毒殺の証拠を隠すための家臣たちの仕業ではないか、という不自然な疑いを生んでいます。

福島正則の死には、毒殺や暗殺を疑わせる記録があり、なぜか葬儀も性急すぎていました。

真実が闇のなかにあるからこそ、この説は消えることがありません。

恐れられた「豊臣魂」

もしも本当に暗殺だとしたら、それは福島正則が最後まで「豊臣の武士(もののふ)」として恐れられていた証拠でもあります。

武骨すぎて時代に馴染めなかった男は、最期まで権力者に警戒されていました。

豊臣魂が徳川幕府に恐れられていた福島正則らしい最期とも言えます。

盟友・加藤清正の死

福島正則の盟友として知られるのが、加藤清正です。

関ヶ原の武功により、熊本藩主になっていましたが、1611年に50歳で亡くなっています。

こちらは、暗殺説が有力です。

福島正則の死が加藤清正の死と混同されているのかもしれません。

時代に取り残された男

福島正則という人物を振り返ると、〝時代に取り残された男〟という言葉が似合います。

福島正則が生きている間に、槍一本で天下を動かした時代から、官僚たちが書面で統治する時代へと変化しました。

死因としての「心労」「飲酒」「暗殺」は、どれか1つが正解というより、そのすべてがからみ合っていたようにも思えます。

幕府に追い詰められ(心労)、それを紛らわすために酒に溺れ(飲酒)、最後は都合よく消された(暗殺)。

真っ直ぐで、誰よりも不器用だった男、福島正則。

その悲劇的な最期を知ることで、戦国時代という残酷な幕引きのリアルが見えてくる気がします。

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