【この記事でわかること】
- 文武両道で組織のトップも認めた、ナンバーワン美男子の経歴と魅力
- 志を共にした仲間と新選組を離脱し、独自の道を歩み始めた理由
- 近藤勇が仕掛けた冷徹な闇討ち「油小路事件」の全貌と壮絶な最期の様子
- 途絶えた直系と、その偉業を現代へ語り継ぐ実弟の驚くべき後日談
- 皇室ゆかりの寺に眠るお墓の秘密と、今も京都に残る事件の生々しい痕跡
伊東甲子太郎の死因は暗殺!
新選組(しんせんぐみ)のメンバーに、美貌(びぼう)の参謀(さんぼう)がいました。
その男の名は伊東甲子太郎(いとう・かしたろう)で、ナンバーワンイケメンと噂されました。
北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の熱心な門下生であり、文武両道の英才として局長の近藤勇(こんどう・いさみ)に高く評価されました。
年齢も近藤勇とほぼ同じで、誕生日は2ヵ月しか離れていません。
参謀を務めるほどの知識人で、剣も凄腕(すごうで)で、さらにはイケメン!
しかし、思想的な違いから新選組を離脱し、御陵衛士(ごりょうえじ)を結成して独自の道を歩むことになります。
伊東甲子太郎は、志(こころざし)を同じくする仲間と共に時代の変革を目指したものの、時代のうねりと組織の論理に翻弄されました。
その姿は、現代に生きる私たちの胸にも深く刺さります。
伊東甲子太郎は、新選組の刺客(しかく)に襲われ暗殺されました。
世にいう「油小路事件」(あぶらのこうじじけん:「油小路の変」ともいう)です。
伊東甲子太郎が襲われた「油小路事件」とは?
1867年11月18日、近藤勇の妾宅(しょうたく)に招かれた伊東甲子太郎は、酒を振る舞われて泥酔状態になりました。
帰路についたところを、待ち伏せしていた大石鍬次郎(おおいし・くわじろう)らが襲い、槍で喉を突き刺されたのです。
近藤勇が仕掛けた計画的な闇討ち(やみうち)に、組織を守るための冷徹な執念を感じます。
致命傷を負いながらも、伊東甲子太郎は近くの本光寺(ほんこうじ)の門前まで進み、題目石(だいもくいし)に寄りかかって絶命しました。
伊東甲子太郎が新選組に恐れられた理由
新選組を脱退し、孝明天皇(こうめいてんのう)の御陵を守る御陵衛士を結成した伊東甲子太郎は、新選組にとって許しがたい裏切りでした。
伊東甲子太郎が幕府側の立場を捨て、反対の立場である尊王(そんのう)側についたからです。
さらに、裏で薩摩藩(さつまはん)と手を結び、近藤勇の暗殺を企てている情報が新選組に伝わったようです。
知略にあふれた伊東甲子太郎が、酒に酔った状態で最期を迎えたことは、無念極まりない結果だったはずです。
伊東甲子太郎はイケメン&凄腕の剣術家だった!
伊東甲子太郎は誰もが認める大変な美男子であったと当時の記録に残されています。
新選組の幹部であった時代も、黒紋付を粋に着こなし、その美しい容姿と巧みな弁舌で、多くの隊士たちを魅了していました。
一方で、武術の腕前も一流であり、若い頃に神道無念流(しんどうむねんりゅう)を修めました。
その後、江戸の深川の名門である北辰一刀流を極めるなど、凄腕の剣術家だったのです。
伊東甲子太郎暗殺事件の意味とは?
伊東甲子太郎が暗殺されたのは、伊東甲子太郎が高い知性と圧倒的な剣術の腕前を併せ持ちながら、新選組を離脱し、敵対関係になったからです。
近藤勇の率いる新選組にとっては、まさに最強の敵の誕生でした。
この事件は、幕府を支えようとする新選組と、朝廷を中心とした新しい国造りを目指す御陵衛士の思想の衝突が生んだ悲劇だったと解釈できます。
伊東甲子太郎の子孫、あるいは弟
伊東甲子太郎の直系の子孫は現代には残っていないと考えられます。
江戸にいた頃に妻の「みつ」と結婚していましたが、京都へ上洛(じょうらく)したあとに離婚が成立したと伝えられています。
伊東甲子太郎には「えい」という娘がいた記録もありますが、その後の足跡や生涯に関する確かな史料は残されていません。
実の子どもについて確実な後日談はないため、〝直系の血筋は途絶えてしまった〟というのが歴史的な見解だと言えます。
伊東甲子太郎の弟・鈴木三樹三郎の血筋は健在
一方で、伊東甲子太郎の実の弟である鈴木三樹三郎(すずき・みきさぶろう)の血筋は、現代までしっかりと受け継がれているようです。
鈴木三樹三郎は兄と共に新選組に入隊し、のちに御陵衛士へ移り、油小路事件を生き延びた人物です。
主に司法・警察関係の仕事をし、警察署長まで勤めました。
鈴木三樹三郎には子どもがいて、その末裔(まつえい)たちが伊東甲子太郎の偉業や記憶を現代に伝える役割を果たしているとのことです。
また、確実な証拠は乏しいものの、一説には伊東甲子太郎の養子となった人物が兵庫県の警察官になった記録も存在するようです。
伊東甲子太郎に直系の子孫はいませんが、実の弟である鈴木三樹三郎の血筋が現在も健在であり、兄の歴史を後世に語り継いでいます。
歴史の闇に消えかけた伊東甲子太郎の面影が、弟の家族を通じて守られていることに、私は深い血縁関係を感じます。
激動の時代に散った兄の分まで、弟の鈴木三樹三郎が明治の世を生き抜き、子孫を残したと考えると感慨深いものがありますね。
伊東甲子太郎の墓の所在は戒光寺
伊東甲子太郎のお墓は、京都市東山区(ひがしやまく)にある泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭(たっちゅう)である戒光寺(かいこうじ)にあります。
この寺院は、皇室(こうしつ)とも深い関わりを持つ、格式の高いお寺として有名です。
伊東甲子太郎の墓は改葬された
油小路事件のあと、伊東甲子太郎の遺体は別の場所に埋葬されましたが、明治になってから戒光寺に改葬されました。
御陵衛士として天皇の御陵を守ろうとした伊東甲子太郎だからこそ、このように改葬されたのでしょう。
皇室ゆかりの寺に眠っている事実は、歴史の因縁と言ってもいいでしょう。
戒光寺の墓所には、伊東甲子太郎だけでなく、同じ事件で命を落とした藤堂平助(とうどう・へいすけ)や毛内監物(もうない・けんもつ)らの墓碑も並んでいます。
なお、お墓があるエリアは通常は非公開で、参拝を希望する場合は事前に寺院への予約が必要とされています。
伊東甲子太郎の関連史跡
伊東甲子太郎が暗殺された現場である本光寺の境内には、伊東甲子太郎が寄りかかって絶命したとされる題目石が今も残されています。
また、生まれ故郷である茨城県かすみがうら市にも顕彰碑が建立されています。
命をかけて理想を追い求めた人間が、相応しい格式ある場所で供養されているのですね。
京都を訪れた際には、ルールを守ってしっかりと手を合わせ、その激しい生き様に思いを馳(は)せたいものです。
伊東甲子太郎は激動の幕末を駆け抜けた知識人
文武両道であり、その美貌と知性で多くの人を魅了しながらも、思想の相違から悲劇的な死を遂げた伊東甲子太郎。
その死因は新選組による暗殺でしたが、彼の生き様は実弟の子孫によって現代まで語り継がれています。
伊東甲子太郎は、新選組の歴史を語るうえで絶対に欠かせない、気高き理想を追い求めた孤高の知識人でした。
自分の信じた尊王の志を突き進んだ生き方は、これからも多くの人びとの心を揺さぶり続けると私は思います。
