【この記事でわかること】
- 新選組の最古参でありながら、温厚で誠実と評された井上源三郎の組織内での役割
- 最新鋭の兵器を誇る新政府軍に対し、井上源三郎が最前線で直面した過酷な戦況
- 決死の撤退戦の最中、井上源三郎が仲間の盾となって迎えた壮絶な最期の真実
- 叔父・井上源三郎の最期を見届けた12歳の少年が、生還後に果たした大きな使命
- 井上源三郎の墓が京都と東京の2ヵ所にある歴史的背景と理由
井上源三郎の死因は敵軍の銃弾
井上源三郎は鳥羽・伏見の戦いで激闘した
新選組(しんせんぐみ)の幹部の中でも、特に温厚(おんこう)で誠実な人柄で知られるのが井上源三郎(いのうえ・げんざぶろう)です。
六番隊組長を務めました。
派手な剣豪(けんごう)たちが集まる新選組において、井上源三郎は最古参のメンバーとして組織を支え続けました。
しかし、時代の激流に巻き込まれた新選組は、やがて旧幕府軍として鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)に身を投じることになります。
井上源三郎は、この鳥羽・伏見の戦いで戦死するのです。
鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の初戦です。
京都の鳥羽(とば)や伏見(ふしみ)周辺が戦場となりました。
1868年1月、新選組は旧幕府軍の一員として、鳥羽・伏見の戦いに参戦しています。
幕末においてもっとも有名な戦いです。
相手は新政府軍と呼ばれていますが、発足して1ヵ月も経っていませんでした。
旧幕府軍と新政府軍との対決と言われますが、実質は幕府軍と維新軍です。
最新鋭の兵器を装備した新政府軍に対し、刀や槍を中心とする新選組は極めて苦しい戦いを強いられます。
六番隊組長の井上源三郎は、迫り来る敵軍を迎え撃ちました。
場所は、淀(よど)の千両松(せんりょうまつ)と呼ばれる激戦地です。
真面目な井上源三郎は、組長として強い覚悟で最前線に立っていたと想像されます。
井上源三郎は銃弾に倒れ、壮絶な最期を遂げた
戦況が不利な旧幕府軍は撤退を余儀なくされ、井上源三郎はみずから、旧幕府軍の最後尾で新政府軍を食い止める殿(しんがり)の任務を買って出ました。
井上源三郎は、迫り来る敵の猛攻を防ぎながら、仲間を逃がすための盾(たて)となったのです。
その激戦の最中、井上源三郎の腹部に敵の放った弾丸が命中しました。
致命傷を負った井上源三郎は、その場で戦死を遂げました。
新選組の良心とまで評された穏やかな隊士が、鳥羽・伏見の戦いで散りました。
最後まで仲間を逃がすために戦い抜いた井上源三郎の姿は、悲壮でありながらも武士としての誇りに満ちていたと思います。
新選組のためにすべてを捧げた男の、あまりにもあっけない散り際でした。
井上源三郎の甥が下した苦渋の決断
井上源三郎が倒れたとき、同じ戦場には甥(おい)である井上泰助(いのうえ・たいすけ)が隊士として従軍していました。
わずか12歳ほどの少年であった井上泰助は、叔父である井上源三郎の首を敵に渡すまいと、その首と愛刀、そして衣服を携えて必死に退却を試みます。
しかし、井上源三郎の首はあまりにも重く、敵の追撃が迫る中で、井上泰助は途中の寺の境内に首と刀を埋めて逃げ延びる苦渋の決断を下しました。
少年であるにもかかわらず、現実を直視した立派な判断でした。
井上源三郎に子孫はおらず、甥が家を継いだ
井上源三郎に直系の子孫はいないが甥・井上泰助が跡を継ぐ
井上源三郎は生涯独身を通したため、直系の子孫は存在しません。
しかし、鳥羽・伏見の戦いで井上源三郎の最期を見届け、決死の撤退を遂げた甥の井上泰助が、故郷である武蔵国の日野に戻り、井上家を継ぐことになりました。
井上泰助は激動の明治、大正、昭和の時代を生き抜き、1937年に81歳でその生涯を閉じています。
あの凄惨(せいさん)な戦場から辛うじて生還した12歳の少年が、井上源三郎を後世に伝える役割を果たします。
子孫が営む井上源三郎資料館
井上泰助が継いだ家系は、現代へとつながっています。
生家のあった東京都日野市には、井上源三郎資料館があります。
そこでは遺品や新選組の貴重な史料が一般公開されています。
現在は、井上泰助から数えて4代目の方が館長を務めているそうです。
当時の生家(せいか)がそのままの場所で資料館として残り、血縁関係のある子孫の手で管理されているケースは歴史的にも極めて貴重であると言えます。
激動の時代を乗り越え、守り伝えてきた子孫の方々の努力には、本当に頭が下がる思いです。
井上源三郎の墓は2ヵ所ある!
故郷の日野に立つ宝泉寺の墓
井上源三郎の墓は、故郷である東京都日野市の臨済宗(りんざいしゅう)・宝泉寺(ほうせんじ)と、戦死した京都府京都市の欣浄寺(ごんじょうじ)の2ヵ所にあります。
2つの墓のうち、井上源三郎の本来の墓は、東京都日野市の宝泉寺の墓です。
宝泉寺は井上家の菩提寺(ぼだいじ)で、境内には井上源三郎の記念碑も残されています。
鳥羽・伏見の戦いの混乱によって遺体を故郷へ連れ帰ることは叶(かな)いませんでした。
しかし、親族や故郷の仲間たちの手によって、この地に墓が作られました。
首が埋葬された京都の欣浄寺
一方、京都市伏見区の欣浄寺にある墓は、甥の井上泰助が敵の追撃から逃れる途中に井上源三郎の首と愛刀を地面に埋めたとされる場所です。
長年にわたり正確な埋葬場所は不明とされていました。
しかし、近年の研究や子孫の方々の調査によって欣浄寺の境内であることが特定され、現在は供養塔があります。
井上源三郎は新選組の誠を支えた
井上源三郎の生涯を振り返ると、誠実さを貫いた一人の武士の姿が浮かび上がります。
井上源三郎は、新選組の良心として組織を支え、最期は仲間のために命を散らしました。
戦死という悲劇的な結末を迎えましたが、井上源三郎の残した精神は、子孫の方々や資料館を通じて現代にも伝えられています。
井上源三郎は、新選組の誠を支えた温厚な人物だったのです。
