永倉新八の子孫の現在は?刀への思いとは?死因が意外!

永倉新八 幕臣(幕末)/藩士/志士

【この記事でわかること】

  • 新選組最強の剣豪・永倉新八が、激動の幕末から明治・大正まで生き抜いた激動の生涯
  • 晩年の永倉が孫と映画を観た際、近藤勇や土方歳三を想って語った人間味溢れる言葉
  • 現代も各地のイベントで精力的に活動する、新選組幹部としては珍しい直系子孫の現在
  • 池田屋事件の激闘でノコギリのようになるまで戦い抜いた、頑丈すぎる愛刀の驚くべきエピソード
  • 数々の戦場を無傷で潜り抜けた最強の剣士が、晩年に直面したまさかの意外すぎる死因

永倉新八の子孫は現在も健在!

永倉新八って誰?

新選組最強の剣士と言えば、永倉新八(ながくら・しんぱち)をはずすわけにはいきません。

もちろん斎藤一(さいとう・はじめ)や沖田総司(おきた・そうじ)などの名前も上がりますが、永倉新八も絶対に外せない剣豪です。

永倉新八は、新選組の二番隊組長を務めていました。

そして、池田屋事件など多くの修羅場(しゅらば)をくぐり抜け、驚くべきことに明治から大正の世まで生き抜いたのです。

近藤勇(こんどう・いさみ)との衝突や決別を経験しながらも、新選組としての誇りを終生持ち続けた生き様は非常に魅力的です。

永倉新八はもともと松前藩(まつまえはん)の江戸定府(えどじょうふ)の武士の家に生まれました。

そして、新選組では重要な役割を担いました。

しかし、鳥羽・伏見の戦いのあと、近藤勇らと意見が分かれ、新選組を離れました。

永倉新八は結婚して杉村姓へ改名した

その後、永倉新八は故郷の松前藩へ戻り、妻の家を継いで杉村義衛(すぎむら・よしえ)と改名しました。

妻との間には杉村義太郎(すぎむら・よしたろう)が誕生しました。

永倉新八は、北海道で暮らし、明治時代を生き抜き、大正時代に亡くなります。

晩年の永倉新八は、一緒に映画へ出かけるほど孫を可愛がっていたエピソードも残されています。

映画の技術に深く感動した永倉新八は、孫に次のようにしみじみと語ったと言われています。

「わしは長生きしたおかげで、こんな文明の不思議(映画のこと)を見ることができた。もし近藤勇や土方歳三(ひじかた・としぞう)が生きていてこれを見たら、一体どんな顔をしただろうなぁ」

永倉新八の人柄がとてもよく表れていると思います。

永倉新八が継いだ杉村家の現在

永倉新八の直系の子孫は、現代も北海道や東京を中心に健在であり、先祖の歴史を伝える活動を積極的に行っています。

現在は、ひ孫にあたる方が複数名ご存命で、各地のイベントで先祖が歩んだ歴史を後世に正しく伝えるための語り部として、精力的に活動されています。

新選組の幹部で直系の子孫がここまで明確に判明し、現代まで続いている例は珍しいと言っていいでしょう。

命をつなぐことの難しさを知る幕末の剣士だからこそ、子孫の繁栄は最大の救いだったと考えられます。

永倉新八の刀がすごい!

永倉新八は播州住手柄山氏繁を愛用

永倉新八は神道無念流(しんどうむねんりゅう)を極めた凄腕の剣術家でした。

その永倉新八ですから、使っていた刀も有名です。

永倉新八が新選組時代に愛用した刀としてもっとも有名な銘(めい)は、「播州住手柄山氏繁」(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)です。

播州住手柄山氏繁は、江戸時代に播磨国(はりまのくに)の手柄山麓(てがらさんろく)で活躍した刀工が打った日本刀のことです。

播州住手柄山氏繁はかなり頑丈な作りで知られています。

実戦を重んじる永倉新八が好んだことがうかがえる名刀であったとされています。

新選組の出動記録や当時の武器調べの史料にも、永倉新八の所持刀としてこの手柄山氏繁の名前がしっかりと記載されているのです。

永倉新八が名刀に込めた思い

新選組に関する事件で最も有名なのは池田屋事件ですが、永倉新八は戦闘に参加しています。

そして、永倉新八は播州住手柄山氏繁を戦闘に使ったとされています。

激闘では、多くの隊士の刀が折れたり曲がったりしてしまい、永倉新八の刀も激しく刃こぼれしてしまいました。

帽子(ぼうし)と呼ばれる刀の先端部分が折れ、さながらノコギリのようになってしまうほど激しい戦いだったと本人が書き残しています。

それほどの戦闘でも、刀が完全に折れて致命傷を負わなかったのは、愛刀である播州住手柄山氏繁の優れた強度と永倉新八の圧倒的な剣術の賜物です。

刀をただの武器ではなく、己の命を預ける唯一無二の存在として大切に扱っていた武士の誇りが、この名刀の記録から強く伝わってきます。

永倉新八の死因は虫歯!

永倉新八の直接的な死因は、虫歯が原因で引き起こされた骨髄炎(こつずいえん)および敗血症(はいけつしょう)です。

1915年1月5日、小樽(おたる)の自宅において、その生涯を閉じました。

無数の戦場を無傷で生き抜いた最強の剣豪も、虫歯の痛みからの病には勝てませんでした。

ただし、75歳ですから、当時としては高齢でした。

新選組の多くの隊士が若くして命を落とすなか、永倉新八は天寿を全うしたと言っていいでしょう。

晩年の永倉新八

晩年の永倉新八は、地元の小樽で学生たちに熱心に撃剣(げきけん)の指導を行っています。

高齢になっても足腰は強健でした。

70歳を過ぎてから、街頭で絡んできた数人の無頼の徒(ぶらいのと)を、凄まじい気迫の鋭い眼光だけで退散させた逸話があるほどです。

永倉新八は新選組に強い愛着があった

葬儀のあと、遺骨は本人の強い希望によって、東京都北区の板橋にある近藤勇の墓所の隣に埋葬されました。

かつて反目し、袂(たもと)を分かった近藤勇や土方歳三らと共に眠る道を選んだことは、新選組への強い愛着の表れです。

永倉新八は、近藤勇や土方歳三の供養碑を建て、新選組の真実を伝える記録を熱心に書き残しました。

病床に伏しながらも、先に旅立った同志たちの名誉を守る使命感を燃やし続けていた様子が目に浮かびます。

永倉新八は新選組を伝えた最強の剣士

永倉新八は新選組史上最強の剣士として最前線を走り続け、大正の世まで生き抜きました。

愛刀である播州住手柄山氏繁と共に潜り抜けた戦場の記憶は、本人が残した著書によって現代の私たちに伝えられています。

その死因は虫歯の悪化でしたが、杉村家の子孫の方々によって、その血脈と誇りは今も大切に守り続けられているのです。

永倉新八の本質は、無敵の強さを誇りながらも、生き残った者として仲間の生き様を歴史に刻み込んだ義理堅さにあります。

永倉新八が執筆した史料などがなければ、新選組はただの悪党として歴史に埋もれていた可能性があります。

自分の信じた誠の旗印を胸に、激動の時代を最後まで生き抜いた永倉新八。

その生涯は、新選組の真実を後世へ伝えた最後の証言者そのものでした。

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