足利義昭は何した人?死因、子孫、明智光秀の3つの視点から徹底解説!

足利義昭 天皇/皇族・貴族/将軍/豪族

足利義昭(あしかが・よしあき)という名前を聞くと、室町幕府の〝最後の将軍〟というイメージが湧くと思います。

けれど実像は、ただ滅びの時代に立たされた悲劇の将軍ではなく、戦国大名たちの力学の中で〝権威〟を武器に生き残ろうとした、したたかな政治家でもありました。

織田信長の上洛、反織田包囲網、そして京都追放。

この大きな流れの中で、足利義昭の人生は〝政権の中心〟から〝周縁〟へと押し流されていきます。

しかし不思議なことに、流されきった先でこそ、足利義昭の輪郭は濃くなります。

この記事では、〝死因〟〝子孫〟〝明智光秀〟という3つの視点から、足利義昭の実像を解明していきたいと思います^^

足利義昭の死因は病死?追放後の数奇な晩年

足利義昭の死因は、戦国の合戦で討たれたのではなく、京都追放後に移った地で病を得て亡くなった〝病死〟と見られています。

室町幕府15代将軍・足利義昭は、織田信長に奉じられて上洛し、将軍に就任した人物です。

ところが、将軍という肩書きは〝頂点〟であると同時に、諸大名をまとめ上げるための〝政治の手綱〟(たづな)でもありました。

足利義昭は、織田信長の軍事力に依存して京都へ戻った時点で、すでに自力の基盤が弱かったと言えます。

幕府の経済力は弱く、将軍家の直轄軍は衰え、京都の秩序を守る兵力も足りない。

だから足利義昭は、〝将軍の命令〟そのものより、〝将軍という言葉が持つ響き〟で天下を動かそうとします。

そのため足利義昭は各地の大名へ盛んに書状を出し、反織田勢力の結集を図りました。

しかし織田信長から見れば、それは〝将軍の権威〟を使った包囲網づくりであり、共存のラインを越えた政治行動でした。

1573年に足利義昭が織田信長によって京都を追われると、室町幕府は実質的に終焉へ向かいます。

ここで重要なのは、足利義昭が追放された瞬間に〝政治的な死〟を迎えた一方、〝肉体としての生〟はその後も続いたことです。

足利義昭は毛利氏を頼って西国へ下り、備後国(びんごのくに)の鞆(とも:現在の広島県福山市鞆町)を拠点にしながら、幕府再興の可能性を探り続けました。

つまり、足利義昭は〝権威を失った将軍〟として、戦国大名の海のなかを漂うように生きることになります。

この漂流は、ただの逃避ではありません。

鞆は瀬戸内海の交通の結節点で、毛利氏の海上ネットワークとも相性がよい地でした。

京都を奪還できなくても、〝将軍の存在〟を掲げることで、反織田・反豊臣の旗印になりえます。

足利義昭が〝まだ生きている〟という事実そのものが、政治の材料になったわけです。

足利義昭の晩年は、豊臣政権の成立という大転換期と重なります。

足利義昭は身分上の待遇を得る一方で、もはや将軍として京都を支配する力は失っていました。

そして1597年頃、足利義昭は鞆またはその周辺で亡くなったとされます。

戦場で血を浴びて死ぬのではなく、政治の渦を泳ぎ切った末に、静かに体が尽きたのだと私は思います。

この最期は、将軍という立場が〝刀〟よりも〝言葉〟で戦う職であったことを、逆説的に浮かび上がらせています。

足利義昭の子孫・足利義尋が担った役割とは?

足利義昭の子孫を語るうえで、ひときわ重要な存在として名前が挙がるのが、子の足利義尋(あしかが・ぎじん)です。

将軍家が〝職〟としての将軍を失ったあとも、〝家〟として存続していくための受け皿になった人物として捉えると、流れが一気に見えやすくなります。

足利義尋は、足利義昭が京都を追われ、室町幕府が実質的に終わりへ傾いていく時期に位置づけられる人物で、〝将軍家の次の世代〟を象徴する人物でもあります。

室町幕府が終焉を迎えたからといって、将軍家の血筋がその瞬間に消えてしまうわけではありません。

制度が崩れても、家はまだ息をしている。

その〝残り火〟を抱えながら続いていくのが、子孫という存在です。

足利義昭が毛利氏のもとで鞆に拠点を置いたのも、たんなる逃避ではなく、将軍家という存在を〝政治のカード〟として残す意味がありました。

そして、そのカードが次の世代へ渡っていく場面で、自然と意識されやすいのが足利義尋という名前です。

足利義尋という存在は、〝威力が効かなくなった権威〟を、家の内側で静かに温存していく役割を担ったと見ることができると私は思います。

将軍が消えても、家は消えない。

剣を振るう力を失っても、名を守るための知恵は残る。

その知恵が、足利義昭から足利義尋へと、目立たない形で受け渡されていったのかもしれません。

そして私は時々、こんな勝手な想像をしてしまいます。

もしも室町幕府と将軍家が、あの時代の波に飲み込まれずに存続していたなら、足利義尋はまちがいなく〝室町幕府第16代将軍〟として歴史の続きを生きたであろう、と。

足利義昭と明智光秀の関係は?義昭は本能寺の変の黒幕か?

足利義昭と明智光秀の関係は、最初から〝織田信長を挟んだ関係〟だったのではなく、もともとは〝室町幕府(将軍家)を立て直すために動く〟という目的を共有した、主従に近い結びつきから始まりました。

その出発点は、足利義昭が越前の朝倉義景(あさくら・よしかげ)を頼っていた時期にあります。

この頃の明智光秀は、足利義昭の周辺にあって上洛(じょうらく:京都へ上ること)実現へ向けた動きを支えており、〝将軍権威の再興〟という大義の側に立っていました。 

しかし、一方の朝倉義景は、積極的に上洛へ向けた動きを見せませんでした。

そのため、足利義昭は朝倉義景に見切りをつけます。

ここで明智光秀は、足利義昭に織田信長を頼ることを進言し、足利義昭と織田信長をつなぐ〝仲介役〟として前面に立ったのです。 

1568年の上洛後、明智光秀は織田信長の家臣として取り立てられていく一方で、足利義昭との連絡・調整を担う〝パイプ役〟として機能しました。

ここが、足利義昭と明智光秀の関係が〝幕府を支える主従〟から〝織田信長を介した政治的関係〟へ変質していく転換点です。

これに伴い、両者の立脚点は、同じ京都という舞台にいながら、足利義昭においては〝将軍権威を中心に政治を回す〟方向へ、明智光秀においては〝織田信長の実務と軍事で新秩序を成立させる〟方向へと分岐していきました。

そして、1573年に織田信長と足利義昭が決裂し、足利義昭が京都から追放されると、明智光秀は織田信長陣営に残りました。 

この決裂によって、両者は〝同じ大義の中にいる関係〟ではなくなり、足利義昭は反織田の拠点(備後鞆)で再起を狙う存在へ、明智光秀は織田信長政権の中枢を担う存在へと、完全に別々の立場を生きることになりました。 

さらに注目されるのが、1582年の本能寺の変(1582)の直後のことです。

2017年9月に原本の存在が確認された、1582年6月12日付の「土橋重治(つちばし・しげはる)宛 明智光秀書状」によれば、明智光秀が〝上意〟として足利義昭の上洛を支援する趣旨を伝えていた可能性があります。  

ここから、足利義昭は背後で明智光秀と関係を結んでいた〝黒幕〟だったのではないか、という説が生まれました。

ただし、注意すべきは、この史料をもってして〝足利義昭と事前に密謀していた〟と断言できるものではなく、あくまで〝足利義昭の上洛支援を明智光秀が表明した〟ことを示すにとどまることです。 

とはいえ、明智光秀が織田信長を討った動機を〝旧主・足利義昭への忠誠〟として見る見方は、本能寺の変の説明として一定の説得力を持ち得えます

足利義昭と明智光秀——

2人が見据えたビジョンは、いったいどこまで一緒でどこまで違かったのでしょうか?

私にはとても気になるところです。

権威を武器に乱世を泳ぎ抜いた足利義昭の執念

足利義昭は、たんなる〝滅びゆく幕府の象徴〟ではありませんでした。

足利義昭は、刀ではなく〝権威〟という目に見えない武器を最後まで振るい続けた、稀代の政治家だったのです。

京都追放という〝政治的な死〟を遂げたあとも、足利義昭の歩みは止まりませんでした。

毛利氏を頼った備後国の鞆の地で、足利義昭は「将軍」という肩書きの威光を力として、豊臣政権が成立するまでしぶとく生き抜きました。

1597年に迎えた最期は、戦場の露と消えたのではなく、静かな病死でした。

それは、武力による支配の時代が終わり、新たな秩序へと歴史が〝変身〟を遂げた瞬間でもありました。

足利家の血筋もまた、一気に途絶えたわけではありません。

子・義尋が宗教界という受け皿のなかで〝家〟としての足利をつなぎ止めたのは、制度が消えてもなお消えない〝残り火〟を守るためだったのではないでしょうか。

かつての盟友・明智光秀との関係も、権威と実力のあいだで揺れ動いたドラマでした。

本能寺の変の背後に足利義昭の影を見る説が絶えないのは、光秀のなかに〝旧主への大義〟という残り火を私たちが期待してしまうからかもしれません。

足利義昭の人生を追うことは、一つの時代の〝終わり〟を数えることではありません。

刀の威力が届かない場所で、言葉と書状を頼りに人がどう生き延び、時代をつないだのか。

その〝執念の物語〟を学ぶことにあると私は思います。

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