平安時代初期において、嵯峨天皇(さがてんのう)と空海は、とても密接な関係にありました。
とりわけ、空海にとって嵯峨天皇は真言密教を広めるうえで重要な存在でした。
また、橘逸勢を加えた3人は「日本三筆」と呼ばれています。
この記事では、嵯峨天皇と空海の関係、さらには橘逸勢を加えた3人の関係についてご紹介していきます^^
嵯峨天皇と空海の関係をわかりやすく解説
嵯峨天皇(さがてんのう:786〜842)とは、第52代天皇で、平安京遷都を行なった桓武天皇の第二皇子です。
809年から823年にかけて在位し、律令制度の整備や文化の振興に尽力しました。
その嵯峨天皇と密接な関係にあったのが空海です。
嵯峨天皇は、予定よりもだいぶ早く唐から帰国し、九州の大宰府に留め置かれていた空海を、都へ呼び戻しました。
嵯峨天皇の兄の平城天皇(へいぜいてんのう)は、空海の謹慎処分という厄介な問題には関わらない態度をとっていましたが、弟の嵯峨天皇は兄のそうした態度に業を煮やし、兄を追い出してみずから天皇の座に就きました。
嵯峨天皇が天皇の座に就いたのが、809年4月13日。
空海に入洛(にゅうらく:都へ入ること)の許しが下りたのが、7月16日。
その間、わずか3ヵ月。
異例の速さだと思います。
なぜ嵯峨天皇は、そこまでして空海を都へ呼び戻したかったのでしょうか?
空海が『御請来目録』(ごしょうらいもくろく)とともに都へ送った、唐から持ち帰った経典や曼荼羅、法具などを見たことが大きな要因の1つとして挙げられます。
嵯峨天皇は芸術への造詣(ぞうけい)が深く、曼荼羅や密教法具の芸術性の高さを見て取ったのでしょう。
それらを持ち帰ってきた空海なる無名の僧にぜひ会いたいという衝動に駆られたのではないでしょうか。
そんな嵯峨天皇にとって、空海が留学期間を大幅に短縮して帰国したことなど、取るに足らないことだったはずです。
だから、嵯峨天皇は即位後すぐに空海を都へ呼び戻したのだと思われます。
このときから、嵯峨天皇と空海の関係は密になっていきます。
同じ809年、空海は、嵯峨天皇のために「世説新語」(せせつしんご:中国古代の著名人の逸話集)の一文を屏風に書いて献上しています。
816年6月19日には、空海は、唐への留学中から道場を開くことを決めていた高野山の下賜(かし:身分の高い人から頂戴すること)を願って上奏文を嵯峨天皇へ提出します。
これに対して、嵯峨天皇は、すぐに空海へ高野山を下賜。
以後、高野山は、即身成仏の修行を実践する聖地となりました。
嵯峨天皇の即断がなければ、今の高野山はまるで異なった姿をしていたかもしれませんね。
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嵯峨天皇は空海に東寺を下賜
さらに、嵯峨天皇は、823年に空海へ東寺(とうじ)を下賜します。
東寺は、平安京へ遷都した際に、都を守護する目的で西寺(さいじ)とともに創建された官立の寺院です。
嵯峨天皇は、その東寺を真言密教の寺院に改めるように空海へ要請したのでした。
その後、空海は、東寺を教王護国寺(きょうおうごこくじ)と改名し、五重塔や灌頂院、講堂などを整備。
これにより、教王護国寺は、鎮護国家の修法を実践する聖域となりました。
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嵯峨天皇、空海、橘逸勢の関係は?
嵯峨天皇、空海、橘逸勢は「日本三筆」
嵯峨天皇と空海とくれば、もう1人言及しないわけにはいかない人物がいます。
橘逸勢(たちばなのはやなり)です。
橘逸勢は、嵯峨天皇や空海とともに、日本書道史上の優れた3人の能書家として「日本三筆」(にほんさんぴつ)に数えられています。
嵯峨天皇は、書や詩歌など文芸の能力が高く、とりわけ書において、その能力は飛び抜けていました。
空海は、隷書(れいしょ)、楷書(かいしょ)、行書、草書など、あらゆる書体を改良しました。
そして、橘逸勢は、自由奔放でありながら格調高い書を残しました。
ちなみに、嵯峨天皇と空海の書風は、それぞれ「嵯峨御筆」と「大師流」と呼ばれました。
空海と橘逸勢は留学生仲間だった
実は、橘逸勢は、書を通して空海の人生に大きな影響を与えています。
空海と橘逸勢が知り合ったのは、遣唐使のとき(804年)です。
空海と橘逸勢は、どちらも留学生(るがくしょう)として第1船に乗船。
橘逸勢は貴族で、一方の空海は無名の留学僧でしたが、2人は身分の違いを超えて交流を深めていきました。
留学中、中国語が苦手だった橘逸勢を、語学堪能な空海がサポートするという場面は少なくなかったでしょうし、書に関する談義に花を咲かせることもあったと推測されます。
また、空海が唐で経典などを書き写した『三十帖冊子』(さんじゅうじょうさっし)には、橘逸勢による筆の文字も残されています。
空海と橘逸勢の仲の良さを窺わせる証しです。
きっと留学中は、お互いに相手を頼もしく感じていたのでしょうね^^
嵯峨天皇と空海を結びつけた橘逸勢
橘逸勢はたんに空海と知り合っただけにとどまらず、嵯峨天皇と結びつける重要な役割を果たしています。
806年、空海と橘逸勢は、同じ船で帰国しました。
空海は留学期間を大幅に短縮して帰国したため、大宰府に留め置かれますが、橘逸勢は都へ戻ります。
このとき、橘逸勢の父の弟の娘(いとこ)である嘉智子(かちこ)は、のちに嵯峨天皇となる賀美能(かみの)親王に仕えていました。
この橘逸勢を介したつながりが、空海にとってとても有利に働いたであろうことは容易に想像がつきます。
嵯峨天皇は最初、橘逸勢を通して空海の存在を知り、大きな関心を寄せたのではないでしょうか。
その後、空海が唐から持ち帰った経典や曼荼羅、法具などを列挙した『御請来目録』を嵯峨天皇が目にしたことが決定打となり、天皇に即位するとすぐに空海を都へ呼び寄せたのだと考えられます。
また、当時は、「文章経国」(もんじょうけいこく)が重んじられていました。
「文章経国」とは、文章=漢詩がつくられて文学が栄えることが国や社会の平和と安定をもたらすという政治思想です。
嵯峨天皇は、みずから『凌雲集』(りょううんしゅう)や『文華秀麗集』(ぶんかしゅうれいしゅう)』などの漢詩集を編纂(へんさん)するほど、唐の文化や漢詩を好んでいました。
こうした時代背景や嵯峨天皇の好みが、能書家であり優れた漢詩作者でもあった空海を嵯峨天皇に結びつけたのだと考えられます。
橘逸勢が嵯峨天皇と空海を結びつけなければ、空海への嵯峨天皇の関心はそれほど大きくなかったかもしれません。
また、そうであれば、その後の空海の活躍や真言宗の開宗もなかったかもしれませんね。
そう考えると、橘逸勢の歴史的な役割はとても大きかったと言えるでしょう。
まとめ
- 芸術への造詣が深かった嵯峨天皇は、空海が唐から持ち帰った密教の品々の芸術性の高さを見て取り、即位後すぐに空海を入洛させた
- 嵯峨天皇は空海へ高野山と東寺を下賜し、官立の東寺は密教寺院に改めさせた
- 橘逸勢は空海とともに唐へ渡った留学生同士で、帰国後、嵯峨天皇と空海の関係構築にひと役買った
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