1573年4月、室町幕府が滅ぶ直前、天下が大きく動こうとしていたとき、「甲斐の虎」(かいのとら:甲斐は現在の山梨県)と呼ばれた英雄が世を去りました。
その英雄は、織田信長(おだ・のぶなが)をも恐れさせた最強の武将・武田信玄(たけだ・しんげん)です。
武田信玄がもしも、あと数年長生きしていれば、戦国時代はまるで違った展開になっていたはずです。
その武田信玄は、健康マニアとしても知られています。
それなのに、なぜ53歳という若さで命を落としてしまったのか?
現代の医学的視点や当時のエピソードを交えながら、武田信玄の死の真相について考察していきたいと思います^^
武田信玄の死因①:トイレで倒れたという説
武田信玄の死について語られる際、「トイレで倒れて亡くなった」という説があります。
しかし、このエピソードには大きな誤解が含まれています。
その真相を見てみましょう。
なお、戦国時代に「トイレ」と呼ばれるものはなく、当時は「厠」(かわや)とか「雪隠」(せっちん)と呼ばれていたと思われます。
トイレで亡くなったのは宿敵・上杉謙信
結論から言えば、トイレで倒れて亡くなったのは武田信玄ではなく、ライバルの上杉謙信(うえすぎ・けんしん)です。
上杉謙信はトイレで倒れ、そのまま意識が戻らずに亡くなりました。
この衝撃的な最期が、同じく天下を目前にして世を去った武田信玄のイメージと混同され、語り継がれてしまったようです。
武田信玄と上杉謙信が混同される最大の理由は、「信玄」(しんげん)と「謙信」(けんしん)という名前の響きが似ているからでしょう。
どちらも音読み二文字の法名であり、共通の「しん」という音を含むため、セットで覚える際に混同しやすくなります。
さらに両者は戦国最強クラスの武将であり、川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)で宿命のライバルとして対戦したので、常にセットで語られています。
武田信玄はトイレ愛好家だった!?
ところで、武田信玄は、当時としては驚異的なこだわりを持つ〝トイレ愛好家〟(?)として知られていました。
武田信玄の居城(きょじょう)に設けられたトイレは、六畳敷(ろくじょうじき)の広さがあり、常に香を焚(た)いて優雅な音楽まで流していたというから驚きです。
当時は音響設備などないので、家来に常に音楽を演奏させていたのでしょうか?
武田信玄はここで手紙を書いたり、作戦を練ったりして、1人の時間を最大限に活用していました。
つまり、武田信玄にとってのトイレはたんなる排泄(はいせつ)の場ではなく、最新の衛生意識に基づいた〝最高級のプライベート書斎〟(しょさい)だったのです。
自分の身の回りをこれほど清潔に保っていた武田信玄の人生が、どのように幕を閉じたのか、興味は尽きません。
武田信玄の死因②:狙撃説
武田信玄の死を巡る説のなかで、もっとも劇的で、今なお映画や小説の題材となるのが狙撃説(そげきせつ)です。
野田城(のだじょう)攻めの際のある夜、城内から流れてくる美しい笛の音(ね)に誘い出された武田信玄が、敵軍の放った銃弾に倒れたという説です。
このエピソードを語るうえで欠かせないのが、徳川家康(とくがわ・いえやす)の家来で、狙撃の名手として名を馳(は)せた鳥居三左衛門(とりい・さんざえもん)という人物です。
鳥居三左衛門は暗闇のなかで武田信玄の兜(かぶと)にある飾りに狙いを定め、見事に命中させたと言われています。
しかし、この狙撃説については、武田軍の撤退の理由を説明するために生まれた後世の創作、あるいは物語性を重視した軍記物の脚色であるという見方が現在では主流です。
当時の武田家臣団の記録にも、武田信玄が鉄砲で撃たれたという記述は見つかっていません。
でも、個人的には、この説はありえたかもしれないと考えています。
武田信玄を夜におびき出して狙撃するのは、当時の戦法としては卑怯(ひきょう)だと思いませんか?
徳川家康がそんな卑怯な手を使ったとしたら、徳川家(とくがわけ)としては徹底的に隠したでしょう。
隠蔽工作(いんぺいこうさく)によって、狙撃が伝えられなかった可能性は否定できません。
私も歴史好きの一人として、このロマン溢れる狙撃説には興味をそそられます。
武田信玄の死因③:病死説
武田信玄の死因としてロマンは感じられませんが、もっともありえたと考えられるのは、やはり病死説です。
歴史的資料や医学的分析から導き出される仮説は、進行したがんであったということです。
たしかに可能性としては、もっとも有力でしょう。
武田信玄はがんだった!?
武田軍が途中で京都へ向けた進軍=西上作戦(せいじょうさくせん)を取りやめ、撤退を開始したことが史料に記されています。
肺結核(はいけっかく)の説もありますが、現代では多くの歴史学者たちが、武田信玄はがんだたのではないかと考えています。
武田信玄が撤退を始めて亡くなるまで、約1ヵ月の期間がありました。
この間に、側近たちによって、武田信玄の病状が詳しく記録されているのです。
その亡くなるまでの1ヵ月の病状の記録から、末期の食道がん、あるいは胃がんだった可能性が高いと推察されているのです。
西上作戦という天下を揺るがす大勝負の最中、武田信玄は自分の寿命が尽きようとしていることを、誰よりも早く悟っていたに違いありません。
武田信玄が病でも進軍を強行したワケ
武田信玄は、みずからの死を3年間秘(ひ)すようにと言い遺(のこ)しました。
これは、武田家の混乱を防ぐための判断だったと考えられています。
武田信玄が進軍を強行した理由は、15代将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)からの要請があったからです。
みずからの肉体ががんに蝕(むし)ばまれ、血を吐くような病状にありながらも、将軍家への恩義に報いるべく、京都への進軍を強行したのです。
健康管理のために温泉療法や薬草を取り入れ、当時の最高峰の医学知識を持っていた武田信玄ですら、不治の病には勝てませんでした。
しかし、その最期まで自分の役割を果たそうとした姿こそが、今なお武田信玄が〝戦国最強の武将〟として慕(した)われる理由なのでしょう。
武田信玄の死が示す超えられない壁とは?
武田信玄の死因について、トイレで倒れたという説、ドラマチックな狙撃説、そしてがんによる病死説と見てきました。
私は今回改めて武田信玄の最期を見つめ直し、どんなに優れた人物であっても〝時間〟と〝病気〟という壁は超えられないという無常さを感じました。
しかし、武田信玄が死の直前まで家臣(かしん)たちの将来を案じ、武田の旗印(はたじるし)を守ろうとした姿勢は、現代のリーダーシップに通じるものを感じます。
武田信玄の死によって武田家は衰退へと向かいますが、その魂は山梨の地や歴史のなかに今も息づいています。
病に倒れたことを〝無念〟と見るか、それとも〝天命〟と見るかは人によって意見が分かれるところですが、武田信玄が遺した風林火山(ふうりんかざん)の精神は、決して滅びることはありません。
こうして見てくると、武田信玄の死因をめぐる説もまた、名将のイメージが生んだ物語の1つだったのだと思われます。
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