「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
徳川家康(とくがわ・いえやす)の性格を表した、有名な一句です。
忍耐強く、慎重派。
その人物像を、とてもわかりやすく表しています。
たしかに徳川家康には、そうした一面がありました。
しかし、この一句だけで徳川家康の性格を語ってしまうのは、少し物足りないと感じます。
実際の徳川家康の性格は、それだけでは語れない、意外な人間味にあふれているからです。
この記事では、そんな徳川家康の性格にスポットを当てていきます^^
徳川家康の性格はホトトギスの句だけではわからない
徳川家康の性格を語るうえで、「ホトトギス」の句は忍耐強さを象徴しています。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という句は、戦国時代を生き抜いた徳川家康の姿勢をとてもよく表しています。
感情に流されず、状況が整うまで動かない——
この姿勢が、江戸幕府を開くことができた最大の要因だったことは間違いありません。
私自身、この句を初めて知ったとき、徳川家康はとても冷静で、辛抱強い人物なのだろうと思いました。
しかし、史料やエピソードをたどっていくと、この一句は徳川家康の一面にしか過ぎないと感じるようになりました。
なぜなら、徳川家康はただ待つだけの人ではなく、迷い、悩み、不安を抱えながら判断し、行動を重ねていたからです。
ホトトギスの句は、たしかに徳川家康の性格を的確に表現しています。
しかし、それだけで徳川家康の性格を決めつけてしまうのは早合点(はやがてん)だと思います。
徳川家康の性格にまつわるエピソードとは?意外と忍耐強く慎重派!?
徳川家康の辛抱(しんぼう)強さをもっともよく示すエピソードは、関東移封(かんとういほう)を受け入れたことです。
1590年、豊臣秀吉は徳川家康に対し、関東への国替(が)えを命じました。
徳川家康にとっては、それまで拠点としていた三河(みかわ)や遠江(とおとうみ)を離れ、未開の地が多かった関東へ移るという厳しい移封でした。
これは事実上の左遷(させん)に近い命令だったと思います。
移封先は自分たちが滅ぼした、北条氏(ほうじょうし)の領国です。
反乱の火種が多い、危険な土地柄です。
ふつうなら、強く反発してもおかしくありません。
しかし、徳川家康は、この命令を受け入れました。
しかも、ただ従っただけではありません。
江戸を拠点にし、治水(ちすい)や町づくりを進め、少しずつ力を蓄(たくわ)えていきます。
豊臣秀吉の存命中、徳川家康はあくまで臣従(しんじゅう)の立場を保ちました。
目先の不利よりも、将来の可能性を選んだのです。
関東移封は、徳川家康が忍耐強さと長期的な視点を兼ね備えていることがもっともよく表れたエピソードだと言えるでしょう。
徳川家康の性格には優しい一面があった
徳川家康の性格には、意外なほど優しい一面があります。
徳川家康は、家臣(かしん)をたんなる道具として扱う人物ではありませんでした。
長年仕えた家臣に対しては、老後の生活まで気を配ったと伝えられています。
また、失敗した部下に対しても、すぐに切り捨てるのではなく、理由を聞き、立て直す機会を与えました。
このようなところに徳川家康の人間的な温かさを感じます。
徳川家康の性格には討死した家臣の家を支援する優しさがあった
徳川家康の人間性を表しているといえば、鳥居元忠(とりい・もとただ)との逸話(いつわ)を思い出します。
鳥居元忠は徳川家康が天下を取るために京都の伏見城(ふしみじょう)で「城を枕に討ち死に」(しろをまくらにうちじに:城と運命をともにして死ぬこと)しましたが、その後、徳川家康によって鳥居家は大きく取り立てられました。
さらに、「鳥居元忠こそが真の武士の姿である!」と発言し、鳥居家が困窮しないよう、常に目を配るよう周囲に命じていたそうです。
優しさは、弱さではありません。
徳川家康の場合、それは組織を長く保つための強さだったように思えます。
徳川家康の性格には人を頼りにする一面もあった
徳川家康の性格の大きな特徴の1つに、人を頼ることが非常にうまかったことがあります。
徳川家康というと、すべてを自分で判断する慎重な人物という印象を持たれがちです。
しかし実際には、独断で物事を決めることは多くありませんでした。
特に戦いにおいては、周囲の意見をよく聞いています。
その代表が徳川四天王(とくがわしてんのう)でした。
酒井忠次(さかい・ただつぐ)、本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、井伊直政(いい・なおまさ)の4人です。
徳川家康にとって、この4人の存在は欠かせませんでした。
そして、4人を適材適所で使い分けた点に、徳川家康の器の大きさを感じます。
また、政策面では、本多正信(ほんだ・まさのぶ)を重用(ちょうよう)しました。
さらに、天海(てんかい)などの僧侶の知恵も積極的に取り入れています。
しかし、徳川家康がもっとも頼りにしていたのは、側室(そくしつ)の阿茶局(あちゃのつぼね)だったのではないでしょうか。
身近な存在の意見を大切にした点は、とても人間的だと感じます。
1人で問題を抱え込まないことこそが、徳川家康の強さだったのでしょう。
徳川家康の性格には短気で心配性な一面もあった?
徳川家康の性格には、実はかなりの短気で心配性な一面もあったようです。
穏やかな印象とは裏腹に、徳川家康は不安を抱え込みやすい人物だったようです。
緊張すると爪を噛む癖があったというエピソードは有名です。
三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは、武田信玄(たけだ・しんげん)に大敗しました。
このとき徳川家康は、自決(じけつ)を考えたと伝えられています。
さらに関ヶ原(せきがはら)の戦いでも、島津義弘(しまづ・よしひろ)が迫ってきたときに命を絶つ覚悟をしたと言われます。
考えていなかった最悪の事態に直面した時の焦りが感じられますね。
それを止めたのが、まわりの家来たちだったのでしょう。
徳川家康は、わりと、感情が表に出やすい性格だったのかもしれません。
徳川家康の性格を形成した人質時代
徳川家康にとって、駿府(すんぷ:現在の静岡市)にいた人質時代は必ずしも悪い思い出だけではありませんでした。
意外なことに、徳川家康は人質時代を比較的前向きに捉えていたと考えられます。
徳川家康の性格形成にもプラスに働いた可能性が十分に考えられます。
また、人質時代は、学問や礼儀作法を学び、人との距離感を身につけた時期でもありました。
徳川家康が人生の終わりの地として選んだのは駿府です。
人質時代に過ごした土地を選んだ点からも、当時の思い出が悪いものではなかったことがうかがえます。
徳川家康の性格は忍耐強いだけでなく、人間味に満ちていた
徳川家康の性格は、忍耐強さだけでは語れない人間味に満ちています。
慎重で、優しく、そして短気で心配性。
その二面的な性格が、徳川家康を現実的な判断へと導いたのだと思います。
感情を抑え続けたからこそ、最後まで生き残れたと、私は感じています。
完璧な人物ではないからこそ、徳川家康は今も多くの人を惹きつけるのかもしれません。
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