天下分け目の関ヶ原の戦いで勝ったのは徳川家康ですが、負けたのは石田三成です。
これは戦国ファンにとって、今さら説明するまでもない常識でしょう。
しかし冷静に考えてみると、どうして石田三成なのでしょうか?
不思議だと思いませんか?
豊臣秀頼や五大老の毛利輝元ならまだしも、石田三成が最強の敵・徳川家康と戦ったのです。
石田三成は大恩ある豊臣家を守ろうとして旗印になったのですが、その石田三成の人気は、近年では徐々に上がってきています。
では、関ヶ原の戦いで敗れたあとに石田家はどうなったのでしょうか?
石田三成には3人の男の子がいました。
通常であれば、負けた側の首謀者ですから、御家断絶です。
跡取りは全員、処刑されてしまいます。
それが戦国の世の習いですから、仕方がありません。
しかし、調べてみると、石田家は存続したことがわかってきました。
嫡男(ちゃくなん)の石田重家を始めとして、男子が生き延びて子孫もいたのです。
そこで、この記事では、石田三成の子どもたちの足跡を追ってみたいと思います。
石田重家
関ヶ原の戦いは1600年です。
この時、石田三成は41歳でした。
石田三成の3人の息子の名前と、1600年当時の年齢は次のとおりです。
- 嫡男 石田重家 およそ13歳
- 次男 石田重成 およそ12歳
- 三男 石田佐吉 およそ10歳
年齢に関しては3人とも不詳で諸説あるのですが、おおよそこれぐらいと認識しておくとよいでしょう。
石田重家は関ヶ原の戦いのとき何をしていた?
嫡男の石田重家は既に元服していましたが、関ヶ原の戦いには従軍せず、大阪城で秀頼のそばにいたという説と、石田家の居城である佐和山城にいたという説があります。
いずれにしても石田重家は城から脱出し、命からがら逃げおおせたようです。
生き延びた石田重家は京都にたどり着きました。
石田重家、仏門に入る
京都の寺院に身を寄せた石田重家は、そのままそこで剃髪し、仏門に入りました。
徳川家の事情も重なり、助命されたようです。
徳川家の事情とは、天下を豊臣家から奪い取ろうと画策していた徳川家康が、関ヶ原の戦後処理に腐心していたことです。
次の天下人が自分であることを印象づけるには、広い心の持ち主であることを示すに限ります。
相手方の首謀者の嫡男とはいえ、十代前半の子どもを殺したのでは、味方をしてくれた豊臣恩顧の大名たちに猜疑心が芽生えます。
太っ腹なところを見せてこそ、周囲は徳川家康を天下人だと認めてくれます。
この思惑によって、石田重家の命は助けられたと考えるのが妥当でしょう。
その後、石田重家は僧として生きたので、子どもはできませんでした。
1686年に没したとされていて、約百歳まで長生きしたようです。
石田重家に子孫はいた?
僧籍に入った石田重家に子どもがいないことははっきりしていますが、僧籍に入る以前のことは明確な記録が残っていません。
徳川の世において石田三成は、最も忌(い)むべき人物です。
その人物の公(おおやけ)の記録を残さないのは当然です。
しかし一方で、個人の家に伝わる記録はとてもプライベートなものなので、時として真実を語ります。
そのような記録が、越の国(こしのくに)の石田家に残っていたのです。
豊臣家を守るためには石田家も繁栄しなければなりません。
特に豊臣秀吉が没した1598年あたりから、豊臣家にとって徳川家康の脅威は増すばかりです。
豊臣子飼いの武将たちは、徳川家康に次々と取り込まれていきます。
石田三成とすれば危機感が強まります。
このような状況においては、子どもの元服や婚礼を早め、少しでも早く子どもをつくることが求められます。
嫡男の石田重家は関ヶ原の戦いの当時、既に結婚しており奥方は子どもを宿していたそうです。
関ヶ原の戦いで石田方が負けたため、奥方は越前へ逃れます。
可哀想に思った越前藩主の結城秀康に保護してもらったそうです。
結城秀康は徳川家康の次男です。
相手が結城秀康であれば、徳川方も追求できません。
石田重家の奥方は無事に男の子を出産しました。
その子孫が現代にまでつながっていて、現在の石田家の当主はこちらの血筋とのことです。
石田重成
石田重成は石田三成の次男です。
関ヶ原の戦いのときには12歳前後だったとされています。
大阪城で豊臣秀頼の小姓として仕えていました。
関ヶ原の戦いで石田方が負けたため、大阪から若狭へ行き、さらに津軽へ逃れました。
それ以降は杉山源吾と名乗り、津軽家の庇護(ひご)のもと、津軽で隠棲します。
石田三成は、津軽為信を助けてあげたことがあり、その恩に報いるために石田三成の次男を匿(かくま)ったという説があります。
また、石田重成の小姓仲間に津軽為信の嫡男、津軽信建(のぶたけ)がいました。
津軽の地で杉山家を名乗った重成にはやがて子ができ、津軽家の家老職を務めたとのことです。
石田佐吉
石田佐吉は石田三成の三男です。
関ヶ原の戦いのときは元服前だったようで、佐吉は幼名です。
父・石田三成の同じ幼名ですね。
豊臣秀吉に茶を振る舞った利発な子、佐吉はのちの石田三成ですが、その名を受け継いでいます。
三成の三男の佐吉は、関ヶ原の戦いのときは佐和山城にいたそうです。
佐和山城が落城する際に、お目付役として送り込まれた津田清幽(つだ・きよふか)が、徳川家康に助命嘆願をし、家康は受け入れています。
これも、戦後処理に追われていた徳川政権ならではの判断だったのでしょう。
のちに石田佐吉は出家し、深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)と名乗っています。
没年は不詳で、子どもはいなかったようです。
石田八郎
石田三成の三男に石田八郎がいます。
三男といえば石田佐吉のはずですが、英雄にはこのような話がついて回ります。
石田八郎が存在したのか、あるいはフィクションなのか、いずれにしても関ヶ原の戦いの頃は10歳ぐらいのはずです。
この石田八郎は備中に逃れて、そのまま帰農したそうです。
石田千代丸、石田宗信
石田千代丸と石田宗信は、石田三成の庶子(しょし:本妻以外の女性から生まれた子ども)、あるいは子孫と伝えられています。
この2人も実在したかどうかははっきりとしません。
ちなみに、石田三成の娘の子孫が尾張徳川家の徳川光友の正室になります。
千代姫といいます。
千代丸と千代姫。
石田家は「千代」に多少の縁があるようですね。
石田家は今も健在
石田三成の子孫である石田家は今も健在です。
しかも、石田三成の嫡男の血筋であることは、本文で紹介しました。
石田三成の正統の血が現代にまで伝わっている――
そう感慨深く喜ぶ歴史ファンは少なくないでしょう。
その後の歴史が示すように、徳川家は約270年後には大政奉還しました。
もう今となっては石田と徳川が争う必要はまったくないので、石田家が取りつぶされる心配はありません。
歴史のロマンとともに、どこまでも石田家が存続してほしいものです。
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