【この記事のポイント】
- 毛利輝元(もうり・てるもと)は10歳で中国地方120万石の家督を継ぎ、豊臣政権では五大老の1人となった。
- 関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に祭り上げられたが、自身は戦場に出ず大坂城にいた。
- 西軍敗北後は領地を3分の1以下に減らされたが、処刑されず生き延びた。
- 子どもに家督を譲っても後見役として実質的な藩主であり続けた。
- 戦国大名としては珍しく老衰で穏やかな最期だった。
- 命を失わなかったことで、250年後に幕府を倒す原動力となる長州藩の礎を築いた。
毛利輝元は何した人?
毛利輝元(もうり・てるもと)は不思議な戦国大名です。
関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康(とくがわ・いえやす)と西軍の石田三成(いしだ・みつなり)の争いとされています。
歴史ファンにも、西軍の総大将が毛利輝元であったことは意外と知られていません。
そしてこれだけ大きな戦の総大将だったにも関わらず、負けた後も生き続けています。
まるで忘れられているようです。
なぜでしょうか?
以下、存在感がなく、なぜか生き残り続けた不思議な戦国大名である毛利輝元について調べてみました。
毛利輝元は関ヶ原の戦いで戦場には出なかった
毛利輝元を一言で表すなら、〝担がれ続けた大名〟です。
祖父の毛利元就(もうり・もとなり)が築いた巨大な勢力を引き継ぎ、豊臣秀吉の政権では五大老(ごたいろう)のひとりに名を連ねました。
関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に祭り上げられましたが、自身は戦場に出ていません。
西軍は負けたものの、毛利輝元は生き延び、実質的な防長二州(ぼうちょうにしゅう)の初代藩主になりました。
毛利輝元は中国地方最大の大名家を継いだ
毛利輝元は1553年、毛利隆元(もうり・たかもと)の子として生まれました。
祖父の毛利元就は、中国地方のほぼ全域を支配した、戦国時代を代表する知将(ちしょう)です。
毛利元就には多くの子がいましたが、長男の毛利隆元、次男の吉川元春(きっかわ・もとはる)、三男の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)と続きます。
吉川・小早川は毛利両川(もうりりょうせん)として、本家の毛利を支えました。
毛利輝元はわずか10歳のときに父の毛利隆元が急死したため、家督(かとく)を継ぎました。
当時の毛利家は10ヵ国120万石とも言われ、毛利輝元は生まれながらにして巨大な家の跡取りとして育ち、10歳にして当主(とうしゅ)に担(かつ)ぎ上げられた人物です。
自分で領地を手に入れた武将ではなく、受け継いだ遺産の上に立っていた、というのが正直なところだと思います。
毛利輝元は五大老の1人に就いた
豊臣秀吉が天下統一を果たしたあと、毛利輝元は五大老(ごたいろう)の1人に選ばれました。
五大老とは、豊臣政権の安定のために豊臣秀吉が設けた合議制(ごうぎせい)の最高機関で、徳川家康、前田利家(まえだ・としいえ)、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)、そして毛利輝元の5人です。
当時40代半ばの毛利輝元は、毛利家が中国地方最大の大名家であったため、その当主として名を連ねた形です。
ただし、五大老のなかでの毛利輝元の存在感は決して大きくありませんでした。
発言力では徳川家康や前田利家に比べ目立たず、たんに大きな家の当主であるから地位が高かったという印象です。
関ヶ原の戦いの前まで何もしていない
五大老に就いたあと、毛利輝元が独自に歴史を動かした場面は見当たりません。
1598年に豊臣秀吉が死去したあと、徳川家康と石田三成(いしだ・みつなり)の対立が深まります。
翌年、両者の間を取り持っていた前田利家が亡くなり、争いは避けられない状態になっていきます。
この時期、多くの武将がさまざまな行動を取り、たくさんのエピソードがありますが、毛利輝元が積極的に動いた記録はほとんどありません。
極めて不思議なことだと感じます。
毛利輝元、もうひとつの関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いが起きた1600年、徳川家康は58歳、石田三成は40歳、上杉景勝は42歳、宇喜多秀家は28歳でした。
そして毛利輝元は47歳です。
西軍総大将であったにもかかわらず、戦場に一度も姿を現さなかったという事実は、年齢を考えてもいささか不思議です。
実は、五大老のなかで最年長でも最年少でもない、働き盛りの47歳の天下分け目の戦いの西軍総大将は、大坂城にとどまっていたのです。
毛利輝元はなぜ西軍の総大将になったのか?
徳川家康との戦いを決意した石田三成は、自分では格が違うため、他の大名たちが従わないかもしれないと考えました。
強大な敵に対抗できる名目を考えたとき、五大老のNo.2である毛利輝元に白羽の矢を立てるのは当然でしょう。
毛利家は中国地方最大の大名家であり、その名前には権威があったのです。
毛利輝元自身よりも、「毛利」という名前が必要とされたのが実態に近いと思います。
1600年、石田三成を中心とする反徳川勢力は、毛利輝元を総大将に擁立(ようりつ)します。
これを受けて、毛利輝元は大坂城に入りました。
ところが、関ヶ原の戦いで毛利輝元が軍を率いて動いた記録はなく、西軍の将兵たちが関ヶ原で戦っているあいだ、ずっと大坂城にいました。
総大将でありながら、戦場に出なかったのです。
これは臆病だったのか、それとも状況を見極めていたのかわかりませんが、結果として自分では何もしないまま西軍は敗北したのです。
毛利輝元は戦わずして領地を失った
西軍が敗れたのは、実際に戦場にいた毛利家の武将たちが戦わなかったり、複数の武将たちが寝返ったりしたためだと言われています。
そして、毛利輝元は徳川家康と交渉し、早々に大坂城を明け渡しました。
毛利輝元は、約120万石あった所領を、防長二州の約37万石へと大幅に削減されます。
戦わなかった毛利輝元は、領地を三分の一以下にまで減らされましたが、命は失いませんでした。
石田三成、小西行長(こにし・ゆきなが)、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)は処刑され、宇喜多秀家は八丈島へ流罪(るざい)となっています。
一方で、毛利輝元が西軍総大将でありながら生き延びることができたのは、存在感が薄すぎて、徳川家康も呆(あき)れていたからかもしれません。
毛利輝元の死因は老衰
毛利輝元は1625年、73歳で亡くなりました。
毛利輝元の死因は老衰で、戦国大名としては異例なほど穏やかな最期でした。
西軍の総大将を務めながら処刑されず、領地を削られながらも生き続け、73歳まで天寿を全(まっと)うしたのです。
関ヶ原の戦いのあと、嫡子(ちゃくし)であるわずか6歳の毛利秀就(もうり・ひでのり)に家督を譲りますが、自分が後見役となり、実質的な藩主でありつづけました。
10歳だったときのみずからの家督相続に重ね合わせていたのかもしれません。
実質的な大名の地位を保ちながら長生きした毛利輝元は、戦国大名のなかでもかなり恵まれた最期を迎えたと言えます。
関ヶ原で戦わなかったことを、長年悔(くや)やんでいたという記録も残っています。
晩年の毛利輝元は、徳川幕府への対抗心を隠さず、家臣たちに関ヶ原の雪辱(せつじょく)を忘れるなと言い続けたとされています。
まったく意外ではない死因もまた、毛利輝元らしいと感じます。
毛利家は250年後、倒幕の原動力となった!
毛利輝元は、みずから歴史を切り開いた武将では決してありません。
担がれ、負け、領地を削られ、それでも生き延びました。
しかし、毛利輝元が命をつないだことが、250年後の倒幕の原動力となる長州藩を生んだのです。
存在感が薄いまま生き、存在感が薄いまま死んだように見えて、毛利輝元が残したものは決して薄く小さくはありませんでした。
戦場で輝かなかった武将が、結果として徳川幕府を倒す藩の礎(いしずえ)をつくったというのは不思議な話です。
いずれにせよ、毛利輝元という人物は、目立たないままに歴史に深く刻まれた、稀有(けう)な大名だったと思います。
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