遣隋使は聖徳太子の執念の表れ!失敗を糧に日本を〝国際国家〟へ導いた外交戦略

聖徳太子 天皇/皇族/貴族/豪族

遣隋使(けんずいし)とは、推古天皇のもとで摂政(せっしょう)を務めていた聖徳太子が、中国の隋へ送った外交使節団のことです。

当時の隋は東アジアの超大国であり、日本はその先進的な制度や文化を学ぶことで、冠位十二階や十七条憲法の制定、そして仏教や建築技術の発展など、大きな成果を得ました。

しかし、遣隋使の派遣の歴史は決して平坦ではありませんでした。

最初の派遣で、日本は「未開の国」とみなされ、失敗に終わりました。

それでも聖徳太子はあきらめず、国内の改革を進め、ふたたび隋との交流に挑みます。

こうした努力の末、遣隋使は多くの留学生や僧を派遣し、隋の高度な知識と文化を日本へと持ち帰ることに成功しました。

失敗から学び、外交を通じて国を成長させたこの取り組みこそ、「学び」と「外交」で日本を変えた聖徳太子の偉業といえるでしょう。

この記事では、遣隋使を成功へ導いた聖徳太子の努力と道のりをたどっていきます。

遣隋使の目的は2つ。失敗が聖徳太子の改革を生んだ!

朝廷が遣隋使を派遣した理由は、主に2つありました。

  • 先進国である隋と対等の立場で国交を結ぶこと
  • 発展した隋の制度や文化を取り入れ、国づくりに生かすこと

隋の記録によれば、最初の遣隋使は600年に派遣されています。

しかし、この初回の派遣では大きな成果を得られませんでした。

隋の初代皇帝だった楊堅(ようけん)に謁見(えっけん)した日本の使者たちが政治や文化に関する質問に十分答えられず、「日本は未開な国」と判断されてしまったのです。

その結果、国交の確立という第一の目的は果たされず、隋の宮廷から追い返されてしまいました。

とはいえ、この経験が無駄になったわけではありません。

隋の制度を学び、外交の課題を知ることができたこの派遣は、のちの改革へとつながります。

初回の遣隋使の失敗をふまえ、聖徳太子は国内の整備を急ぎます。

603年には冠位十二階を制定し、家柄ではなく能力によって官位を与える仕組みをつくりました。

604年には十七条憲法を制定し、和を尊ぶ精神と官僚の道徳を重視する国家理念を定めます。

これらの改革により、日本は初めて「中央集権的な政治体制」を整えることに成功しました。

聖徳太子は、日本が国際社会に認めてもらえるよう、着々と準備を進めていきました。

初回の遣隋使の派遣に失敗してもあきらめなかった聖徳太子の姿勢からは、外国から多くのことを学び、国をより豊かにしようとする強い意志を感じます。

困難に直面しても改革を進めようとする聖徳太子の熱意は、海を越えて隋の皇帝にまで伝わったのではないでしょうか。

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小野妹子の手紙に込められた聖徳太子の外交戦略とは?

607年、いよいよ第2回遣隋使が派遣されます。

このときの使節団の代表が小野妹子(おののいもこ)でした。

彼が持参した国書には、次のように記されていました。

日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや。

〝東の国(日本)の天子から、西の国(隋)の天子へお便りします。お変わりなくお過ごしでしょうか?〟

この一文が隋の皇帝・煬帝(ようだい)を激怒させました。

「日出ずる処」とは日本のこと、そして「日没する処国」とは隋のことを指していたからです。

さらに、「天子」とは中国では皇帝一人を指す言葉であり、日本の王が同格として名乗ることは前代未聞のことでした。

隋の立場から見れば、日本は辺境の一小国にすぎません。

その日本が「対等外交」を主張してきたのですから、煬帝としては不快に感じたのも当然でした。

しかし、隋は高句麗(こうくり)との戦争で多忙だったため、日本との関係を断つ余裕はありませんでした。

聖徳太子の世界情勢を見据えた外交戦略が功を奏し、日本は中国と対等に交流できる文明国家として国際社会に認められたのです。

この時代に海外の情報を詳しく把握することは至難の業だったと思われます。

それでも聖徳太子はあらゆる手段を駆使して情報を集め、日本の未来のために行動したのでしょう。

国内の体制を整え、世界情勢を見極めたうえでの第2回遣隋使の派遣は〝満を持しての挑戦〟だったと言えます。

その結果、日本は「未開の国」という印象は払拭され、対等な国交を切り開くことが出来ました。

聖徳太子の先見性と行動力は、今なお学ぶべき点が多くあると思います。

裴世清が見た日本とは?隋の使者を驚かせた聖徳太子の〝おもてなし外交〟とは?

608年、隋の煬帝は日本への返書を小野妹子に託し、官僚の裴世清(はいせいせい)と随員12人を派遣しました。

裴世清の来日は、日本と隋の正式な国交が始まったことを示す出来事でした。

朝廷は筑紫(福岡)に帰着した隋の使節団を迎えるため、難波(現在の大阪)に新たな迎賓館(げいひんかん)を建設し、装飾を施した船で盛大に出迎えました。

隋の使者は迎賓館で厚くもてなされ、飛鳥に到着する際には、飾り馬による華やかな行列で歓迎されました。

この盛大な出迎えは、国の威信を国外に示すための聖徳太子による政治的演出でもありました。

「未開の国」という印象を抱いていた隋の裴世清たちは、どのような思いで日本への派遣に臨んだのでしょうか。

使節団には、日本が対等な国交を結ぶに値する国家であるかを見極めるという使命もあったと思われます。

聖徳太子は、裴世清らを盛大にもてなし、外国の使節団を堂々と迎え入れることができる国家であることを示しました。

その光景を目の当たりにして、裴世清らの日本への印象は大きく変化したのではないでしょうか。

留学生と留学僧の派遣が後世につないだ聖徳太子の志と理想

608年、第3回遣隋使として小野妹子がふたたび派遣され、隋の使者・裴世清の帰国に同行しました。

このとき、日本からは学者の高向玄理(たかむこのくろまろ)をはじめとする4名の留学生に、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)ら4名の留学僧が派遣されました。

小野妹子は翌年帰国しましたが、留学生と留学僧らは長期間にわたって滞在し、政治、法律、文化などの高度な知識を学びました。

隋との関係は良好に続きましたが、618年に隋が滅びると唐が建国されます。

留学生と留学僧らは隋から唐への政変に遭遇し、その変化を体験することになりました。

一方、日本では、遣隋使を送り出してきた聖徳太子が622年に没します。

その後、僧旻は632年、高向玄理と南淵請安は640年に帰国しました。

留学生と留学僧らが持ち帰った知識や文化は、645年の大化の改新や律令(りつりょう)制度の整備に大いに役立てられました。

南淵請安は、のちに大化の改新を起こす中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)に学問を教えたとされています。

また、高向玄理と僧旻は大化改新後に、新政府の顧問である国博士(くにはかせ)に就任して政治に関わりました。

このように、日本は中央集権国家の実現を目指し、中国の律令制度を積極的に学び取り入れました。

律(刑法)と令(行政法)によって国家を統治する律令制度は、日本の法文化と政治制度の原点となりました。

聖徳太子が送り出してきた留学生や留学僧たちは、隋や唐で高度な知識と文化をしっかりと学び、日本に帰国後、中央集権国家の実現に結びつけたのです。

聖徳太子自身はその成果を見届けることはできませんでしたが、聖徳太子の志(こころざし)と理想はのちの世代にしっかりと受け継がれたのだと思います。

遣隋使を語呂合わせで覚える! 

遣唐使の年号を語呂合わせでポイントと共に覚えましょう。

  • 607年 遣隋使派遣 「群れなす(607)小野妹子」
    小野妹子が派遣、「日出ずる処の天子」で煬帝激怒
  • 608年 裴世清来日 「無礼やった(608)けど裴世清きた」
    裴世清が来日、日本が正式な国交を確立
    裴世清の帰国に同行する形で、高向玄理、僧旻、南淵請安らを派遣

遣隋使は、失敗から始まり成功で終わった日本外交の原点です。

聖徳太子は失敗を分析し、制度を整え、再度の派遣で日本が文明国であることを証明しました。

その後、隋の使者である裴世清の来日によって国交が始まりました。

留学生や僧侶たちが隋や唐の知識や文化を日本に伝えたことで、日本は初めて中央集権的な国家を建設し、国際社会での地位を確立していきます。

遣隋使にかける思いが強かった聖徳太子は、日本の制度を整え、国際国家としての地位を築くことに成功しました。

今日の国際社会においても、外国とのつながりは欠かせません。

貿易や物流だけでなく、知識や文化といった学びを取り入れることで国は成長し、国民の生活も豊かになっていきます。

聖徳太子のように貪欲に、そして時にはしたたかに外交戦略を進める姿勢は、現代にも通じる大切な教訓だと思います。

平坦ではない道のりを歩みながらも、聖徳太子の努力は実を結び、外国との交流はその後もさまざまな形で発展を続けました。

情報があふれる現代だからこそ、実際に人びとと交流し、文化や思想に直接触れることの価値を改めて見つめなおすチャンスなのではないでしょうか。

遣隋使の時代に築かれた〝学びと外交の精神〟は、今を生きる私たちにも大切な気づきを与えてくれるかもしれません。

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