この記事を読んでわかることは——
- なぜ出世コースを捨てて比叡山へこもったのか
- 唐で何を学んだのか
- なぜ空海の弟子となったのか
- なぜ空海と決別したのか
- 徳一との「三一権実論争」とはどのようなものだったのか
- なぜ大乗戒壇の設立をめざしたのか
最澄の年表
767年 | 近江国滋賀郡古市郷(現在の滋賀県)に生まれる |
778年 | 近江国分寺へ入門 |
780年 | 最澄の名を授かる |
785年 | 東大寺で具足戒を授かる 奈良を去り、比叡山にこもって『願文』を著す |
797年 | 桓武天皇の「内供奉」になる |
802年 | 還学生として唐への派遣が決まる |
803年 | 遣唐使の一員として日本を出発 |
804年 | 天台山で天台教学、坐禅、密教、戒律を学ぶ |
805年 | 日本へ帰国 |
806年 | 1月26日、桓武天皇から天台宗開宗の許しが出る |
812年 | 空海から灌頂を授けられ、空海の弟子となる |
816年 | 空海と決別 |
817年 | 821年ころまで法相宗の徳一と論争(三一権実論争) |
818年 | 大乗戒壇設立の裁可を朝廷へ願い出る |
822年 | 逝去 最澄の死の直後、嵯峨天皇から大乗戒壇設立の許しが出る |
866年 | 醍醐天皇から伝教大師の名が贈られる |
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最澄の出家
最澄(さいちょう)は、767年から822年までの平安時代初期を生きた僧侶で、天台宗(てんだいしゅう)を開きました。
生まれは近江(おうみ)国滋賀郡古市郷(現在の滋賀県)です。
幼名を「広野」(ひろの)といいますが、幼いころからとても聡明だったようです。
7歳で医学を学びますが、仏道を志し、778年、12歳のときに近江の国分寺へ入門します。
今で言えば小学生か中学生の年頃で、すでに世の中の無常(この世に永遠に続くものはなく、すべてははかないという仏教の考え方)を感じていたのかもしれませんね。
このときの最澄の師・行表は法相宗(ほっそうしゅう)の学僧だったので、最澄は唯識を学んでいたと思われます。
14歳で得度(とくど:出家すること)し、行表から「最澄」という名を授かりました。
そして、15歳のとき、国分寺(こくぶんじ:国家鎮護のための寺)の僧となりました。
785年、19歳のときに、東大寺(奈良県奈良市)で「具足戒」(ぐそくかい:僧侶が守るべき戒律)を授けられます。
当時、東大寺で受戒するということは、国家から認められた僧侶になるということでした。
つまり、最澄は、国家から認められ、国家公務員のような身分と生活の保障を得たということで、端から見れば前途有望でした。
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最澄、比叡山へこもる
それなのに最澄は、すぐに奈良を去り、比叡山へこもってしまいます。
何があったのでしょうか?
比叡山にこもってまもなくのころに最澄が書いた『願文』(がんもん)には、およそ次のように記されています――
せっかく人間に生まれ、仏の教えに出会うことができても、善(よ)い心を持ち続けることができなければ、地獄(じごく)の薪(たきぎ)になるより他はない。それなのに、今の私は十分に正しい修行ができていない愚(おろ)かで最低の人間である。だからこそ誰よりも精一杯努力をして、多くの人を救い導いて行くことができるような強い自分にならなければならない。それまでは、この修行を決してやめることはできないのだ。
天台宗公式サイトより
当時の仏教(奈良仏教=南都六宗)は政治と癒着していて、そのなかにいては「善い心を持ち続けることができ」ず「地獄の薪になるより他はない」、自分は多くの人を救い導きたいのだ――そう思ったのが、最澄が出世コースを捨て、比叡山にこもった理由のようです。
このとき最澄は、「仏になるための教えを体得するまで山を下りない」という強い決意のもと、12年ものあいだ修行に没頭しました。
最澄の並々ならぬ強い決意がひしひしと伝わってきますね。
この修行のあいだに、最澄は中国天台宗の教えに出会います。
これ以降、最澄のなかには、実際に中国天台宗の中心地・天台山へ行き、教えを修得したいという思いがつのっていきます。
そして、797年に桓武天皇の「内供奉」(ないぐぶ:宮中に奉仕する僧職のこと)に選ばれたことをきっかけとして、最澄は朝廷と密接な関係を築き、桓武天皇に唐行きを直訴。
802年に、桓武天皇によって、「還学生」(げんがくしょう:国費で派遣される短期留学生)として唐への派遣が決まりました。
最澄は飛び上がって喜んだにちがいありません。
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最澄、唐の天台山で学ぶ
803年4月、最澄は遣唐使(けんとうし:中国の王朝・唐への使節団)の一員として、日本の難波(なにわ)を出発しました。
最澄が乗った遣唐使の船は途中、暴風雨に見舞われ、1年間九州に駐留。
再出発するも、ひと月も漂流したりして、中国へ着いたのは804年9月でした。
全4隻のうち2隻しかたどり着けない厳しい航海でした。
さすがの最澄も、死を覚悟したのではないでしょうか。
中国へ渡った最澄は、さっそく「天台山」(てんだいさん:現在の浙江省東部)で修行。
法華経(ほけきょう)をベースにした天台教学を中心に、坐禅や密教、戒律を学びました。
そして、翌年805年6月に帰国。
翌806年1月26日には、桓武天皇から天台宗を開く許しが与えられました。
最澄は桓武天皇からとても信頼されていたということがよくわかります。
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空海との出会いと決別
最澄が唐へ渡ったときの遣唐使団のなかには、のちに「真言宗」(しんごんしゅう)を開く空海(くうかい)もいました。
すでに高僧となっていた最澄に対して空海はまだ無名の僧でしたが、空海が帰国後は立場が逆転します。
空海が持ち帰った密教は正統で完全だった一方、最澄が学んだ密教は部分的で不完全でした。
そこで最澄は、空海に弟子にしてほしいと申し出ます。
僧侶として自分よりまるで格下で、8歳も年下の空海に、弟子にしてほしいと願い出た最澄の心中たるや、凡人の私にはとうてい理解できるものではありません。
自分のプライドよりも、みずからが開いた天台宗、ひいては日本仏教の発展のための行動だったのでしょう。
この最澄の申し出に対して空海は快諾。
812年、最澄とその弟子に灌頂(かんじょう:真言密教の後継者にする儀式)を行います。
ところが、密教の奥義が書かれた『理趣釈経』(りしゅしゃくきょう)を借用したいという最澄の申し出を空海が断ったことを境に2人の関係は冷え込んでいき、最澄が空海のもとで学ばせていた愛弟子の泰範(たいはん)の比叡山への帰還を空海が拒否したことで、空海と最澄は決別してしまいました。
816年のことです。
最澄も空海も、おのれのポリシーを貫いた結果としての決別だったのではないでしょうか。
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三一権実論争
817年前後から821年ころにかけて、最澄と、南都六宗の1つ法相宗の僧侶・徳一とのあいだで「三一権実論争」(さんいちごんじつろんそう)が起きました。
この論争の背景には南都六宗における三論宗と法相宗との対立をいかに解消するかという課題があったようですが、徳一が天台教学を批判したことがきっかけで起きたもので、人には能力によって仏になれる人となれない人がいるという三乗説と、すべての人は仏となれるという天台宗の一乗説との論争でした。
最澄は、この論争について『守護国界章』を書き残していますが、そのなかで徳一のことを「麁食者」(そじきしゃ:粗末な食事をする人)と呼び、激しくののしっています。
「いいかげんな知識で知ったような口をきくな!」という意味のようですが、この論争で最澄がいかに感情を乱していたかが窺い知れます。
もしかしたら、最澄の師・行表は法相宗の僧だったので、最澄は若いときに法相宗の教えを学んでいたはずで、その行表から教わったことと徳一は違うことを言って、師を批判もしくは否定するように最澄に聞こえたから、こんなに激しい言葉を使ってしまったのかもしれません。
それにしても、よほど激しい論争だったのでしょうね。
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最澄、大乗戒壇設立への思い
当時の日本には、国家に認められた正式な僧侶となるために戒律を授ける場=「戒壇」(かいだん)が、奈良の東大寺、下野(しもつけ)の薬師寺(栃木県)、筑紫(ちくし)の観世音寺(かんぜおんじ)の3ヵ所しかありませんでした。
しかし、最澄に言わせれば、これらの戒壇は、自分の救いだけをめざす小乗仏教の戒律を授ける場でした。
そのため、多くの人びとを救う大乗仏教の戒律=「大乗菩薩戒」(だいじょうぼさつかい)を授ける場が新たにつくられるべきだと考えていたのです。
そこで最澄は、818年、大乗仏教の教えや修行を専修する僧侶を養成するための理念と方法を示し、大乗菩薩戒を授戒する大乗戒壇を設立することの重要性を説きました。
奈良仏教側は強く反発し、これに対して最澄が反論するという事態になりましたが、最澄の生前に大乗戒壇が認められることはありませんでした。
悲願成就がかなわなかった最澄は、さぞや無念だったことでしょう。
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最澄の死
822年5月、死期を悟った最澄は、「自分が死んでも喪に服さなくてよい」「国を守るために毎日お経を読み、経典の講義をするように」と弟子たちへ言いのこし、この世を去りました。
享年54歳。
最澄が若くして亡くなったのは、空海との決別や徳一との対立、大乗戒壇設立の困難のために大きなストレスがかかり、それが健康状態に重大な影響を与えたからなのではないかと思います。
実際、最澄は、晩年に「心形久しく労して、一生ここに極まる」という言葉を残しています。
ここには、やりとげたという喜びよりも疲れたという悲壮感が読み取れますね。
しかし、最澄の死の直後の6月11日、比叡山で大乗菩薩戒を授ける制度が嵯峨(さが)天皇によって認められました。
ひょっとしたら、最澄は死の直前、大乗戒壇設立決定の知らせを聞いていたかもしれません。
もしもそうだとしたら、最澄は無念のうちにではなく、喜びに包まれながら亡くなったことでしょう。
なお、866年7月12日、朝廷から最澄に対して「伝教大師」(でんぎょうだいし)の名が贈られています。
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まとめ
- 19歳(785年)のとき東大寺で「具足戒」を授けられる
- 政治と癒着した仏教界から脱し、他を救うために比叡山へこもる
- 唐で天台教学、坐禅、密教、戒律を学ぶ
- 空海の弟子となるも、約4年で決別する
- 法相宗の僧・徳一と論争(三一権実論争)
- 822年に逝去。その直後、悲願の大乗戒壇設立が認められる
- 866年、「伝教大師」の名が贈られる
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