平安時代初期、日本の仏教界に大きな変革をもたらした最澄(さいちょう)。
最澄が比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を開き、日本天台宗(にほんてんだいしゅう)の基礎を築いたことは、その後の日本の歴史と文化に計り知れない影響を与えました。
延暦寺は、法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、栄西(えいざい)、道元(どうげん)、日蓮(にちれん)といった日本仏教の主要な宗派の開祖を多数輩出したことから、「日本仏教の母山」と呼ばれています。
それにしても、最澄はなぜ、数ある山の中から比叡山を選んだのでしょうか?
これは私が以前から抱いていた疑問でした。
その疑問を解くべく調べてみると、歴史的な背景、環境的な要因、当時の政治状況、そして最澄自身の強い決意が深く関わっていることが見えてきました。
この記事では、最澄が日本天台宗の拠点として比叡山を選んだ理由を、ご紹介したいと思います^^
比叡山という霊山:古来からの信仰と最澄の因縁
比叡山は、京都府と滋賀県の県境に位置しています。
東の主峰は大比叡(だいひえい:標高848メートル)、西の主峰は四明岳(しめいがたけ:標高839メートル)です。
1000メートルもない低山の連なりです。
私は何度か行ったことがありますが、京都市街や琵琶湖がよく見渡せる景色のよい場所です。
古くは「ヒエ(日枝、日吉)の山」と呼ばれ、延暦寺が創建される前から、霊山(れいざん)として人びとの信仰を集めていました。
『古事記』には、「日枝(ひえ)の山」として記されています。
日枝の山には、須佐之男命(スサノオノミコト)の孫にあたる大山咋神(おおやまくいのかみ)が鎮座しているとされます。
そして、比叡山の東麓に位置する日吉大社(ひよしたいしゃ)は、大山咋神を祀る由緒ある神社となっています。
私はまだ行ったことはありませんが、名前はよく聞いたことがあります。
また、奈良時代中頃の文献にも、比叡山は霊地として知られていて、修行のための草庵(そうあん)が存在していたと記されています。
一方、最澄と比叡山には、生前からの深い関わりがあったという言い伝えがあります。
『叡山大師伝』(えいざんだいしでん)によれば、最澄の父・百枝(ももえ)は子どもに恵まれなかったため、比叡山麓の日吉大社で祈願したところ、子どもを授かることができました。
その子が最澄であったといいます。
この言い伝えは、最澄が比叡山と深い関わりがあったから天台宗の修行の地としたことを示唆しています。
さらに、近江(現在の滋賀県)出身の最澄にとって、比叡山はもっとも身近な霊山であったということも、最澄が比叡山を選ぶ大きな理由の1つになった可能性があります。
ひょっとしたら、若いときから、比叡山を修行の拠点とすることを考えていたのかもしれませんね。
奈良仏教からの脱却と深山幽谷での修行
次に、最澄が比叡山を選んだ理由として、奈良仏教(南都仏教)からの脱却が挙げられます。
奈良の大寺院は、国家との結びつきが強く、政治的な権力を持つようになっていました。
仏教は一部のエリート層のものになっており、仏教が目指すべき「すべての人びとの救済」からはかけ離れた姿になっていました。
最澄は、そんな既存の仏教の姿を見て、嘆いていたと思います。
そのため、俗世間から離れ、仏道修行に専念できる場所を求めました。
最澄が学んだ中国天台宗を開いた天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)の主著『摩訶止観』(まかしかん)によれば、瞑想(めいそう)のための準備として、まず「静処に閑居せよ」(せいしょにかんきょせよ)と説かれています。
〝人里離れた静かな場所でひっそりと暮らせ〟という意味です。
つまり、深山幽谷(しんざんゆうこく:人里離れた奥深い山や谷)に身を置き、誰にも邪魔されず瞑想に専念する――そのような環境が修行者には最適だというのが智顗の教えです。
だから最澄は、静寂な比叡山へ籠(こも)ったのです。
ネオンがチカチカ灯る都会生活に慣れ親しんだ私にはムリです(笑)
比叡山には、「論湿寒貧」(ろんしつかんぴん)という言葉が伝わっています。
〝仏法を論じ、蒸し暑い夏と極寒の冬に耐え、清貧を重んじる〟という意味です。
比叡山は、まさしく「湿寒」な自然環境のもとにあります。
最澄の目には、こうした厳しい環境こそが、修行を極めるうえで最適に映ったのでしょう。
最澄にとって比叡山は、清らかで純粋な仏教を確立するための理想的な修行環境だったのです。
平安京の「鬼門」を守る:政治的な支援と国家鎮護
最澄が選んだ比叡山は、朝廷にとっても大きな意味を持っていました。
比叡山は、平安京(現在の京都市街)の北東に位置しています。
古代中国の「風水」(ふうすい:環境が運命に影響するという思想)では、北東は「鬼門」(きもん)と呼ばれ、邪気や災厄が入り込む不吉な方角とされていました。
平安京に遷都した桓武天皇(かんむてんのう:737~806)は、新しい都の安泰(あんたい)を願ううえで、鬼門の方角を守ることをとても重視しました。
一方で、桓武天皇は、奈良仏教の勢力をしりぞけ、国家を守るための新しい仏教の力を求めていました。
つまり、比叡山を拠点に国家の安泰を祈る最澄の活動は、桓武天皇の思惑と一致したのです。
まさにWin-Winの関係ですね。
延暦寺は、788年に最澄が創建した「一乗止観院」(いちじょうしかんいん:のちの根本中堂)が始まりです。
一乗止観院は、比叡山寺へと発展し、最澄が亡くなった翌年の823年には、嵯峨天皇(さがてんのう)から「延暦寺」の名が贈られました。
延暦寺が国家や朝廷と深い関わりを持ちながら、日本仏教の中心として発展してきた背景には、桓武天皇と最澄の関係が大きく影響したことを見逃してはならないでしょう。
「一隅を照らす」精神:すべての人が仏になる教え
最澄が比叡山で目指したのは、〝すべての人は仏になることができる〟という「一乗」(いちじょう)の仏教を確立することでした。
「一乗」の思想は最澄が唐で学んだ天台宗における重要な教えで、天台宗が重視する法華経の中核思想です。
最澄は、この教えにもとづき、「一隅(いちぐう)を照らす、これすなわち国宝なり」という有名な言葉を残しました。
〝自分が今いる場所で精一杯努力し、その場所を明るく照らすことが、やがて社会全体、国全体を明るく照らすことになる〟という意味です。
つまり最澄は、「一隅を照らす」ような人を数多く育てることを願い、比叡山延暦寺は、まさにそのための道場となったのです。
まとめ
このようにして見てくると、最澄が比叡山を選んだのは、たんなる偶然ではなく、奈良仏教の権威から離れて純粋な仏教を追求し、すべての人びとを救う教えを広めるために最適の場所だったから、という理由が見えてきます。
こうして比叡山延暦寺は、最澄の理想を実現するための拠点となり、日本の仏教の精神的な源流となったのです。
私は延暦寺に行ったことがありますが、とても厳かな静寂に満ちあふれた場所でした。
とりわけ、延暦寺の中心である根本中堂に入ると、最澄の息吹がそのまま遺っているかのような雰囲気に包まれます。
ぜひ一度、訪れてみてはいかがでしょうか。
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