最澄と空海の関係は最初、文献の貸し借りをするなど良好でした。
そして、空海と対面した最澄は、空海が持ち帰った密教を学ぶため、空海の弟子になることを申し出ます。
しかし、その後、最澄と空海の関係は疎遠になり、ついには決別してしまいます。
いったい何があったのか?
わかりやすく解説していきます^^
最澄と空海の関係の始まりはいつ?
806年に唐から帰国した空海は、すぐには都へは入れてもらえず、太宰府(だざいふ:現在の福岡県)に留め置かれますが、その間、唐から持ち帰った膨大な点数の仏教経典や仏像、曼荼羅(まんだら)、仏具などのリストをつくりました。
『御請来目録』(ごしょうらいもくろく)です。
空海は、この『御請来目録』を、都へ帰る高階遠成(たかしなのとおなり)という貴族に持たせ、平城天皇(へいぜいてんのう)へ献上しました。
そして809年、空海は都へ入ることを許されます。
嵯峨天皇(さがてんのう)の治世です。
入京した空海は、すぐに、高級官僚・和気氏ゆかりの高雄山寺(たかおさんじ)へ入山しました。
実は、この高雄山寺は、和気氏(わけし)が最澄を招いて法事供養をしたり、唐から帰国した最澄が灌頂壇(かんじょうだん:密教の儀式を行う壇)を開いたりと、最澄ととても縁が深い寺院なのです。
その高雄山寺に空海が入った背景には、最澄の斡旋があったのかもしれません。
なぜなら、最澄は、みずからも密教を学び、その布教に努めていたので、最新の密教を体得した空海が帰国したという知らせに敏感に反応したはずだからです。
そして最澄は、なんらかの方法で空海が書いた『請来目録』の情報を得て、あるいは、実際に見て、自分が入手できなかった密教経典を空海が持ち帰ったことを知ります。
〈なんとしても空海に接触したい〉
私が最澄なら、そう思います。
そこで、空海を高雄山寺へ入山させるよう、和気氏に進言したのではないでしょうか。
空海が高雄山寺へ入るとすぐさま、最澄は空海に書簡で文献の借用を願い出ます。
現存するもっとも古い書簡は809年のもので、『大日経略摂念誦随行法』(だいにちきょうりゃくしょうねんじゅずいぎょうほう)一巻など、全部で12部の文献を借用したいという申し出が記されています。
この最澄の申し出を、空海は快諾します。
このことをきっかけとして、最澄と空海は、たびたび文献の貸し借りをする関係となりました。
最澄は空海から借り受けた文献を比叡山へ持ち帰り、懸命に書写したようです。
そして、最澄は、自分が学んだ密教が不完全だったことを思い知ったのでした。
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最澄と空海は師弟関係に
最澄は空海よりも8歳年上でした。
しかし、最澄は、空海に対して丁重に接しました。
空海もしかりです。
最澄と空海の関係は書簡のやりとりのみで、それまで面識はありませんでしたが、812年10月末に初対面を果たします。
乙訓寺(おとくにでら:現在の京都府長岡京市)の別当を務めていた空海のもとを最澄が訪ねたのです。
最澄は乙訓寺に1泊しますが、空海と多くを語り合い、意気投合し、ともに新しい仏教を広めていく同志だと、最澄も空海もリスペクトしあったのではないでしょうか。
なぜなら、空海は最澄に灌頂(かんじょう)を約束したからです。
灌頂とは、密教において阿闍梨(あじゃり)が法門を伝授するための儀式のことです。
阿闍梨とは弟子を導く師匠の意味ですから、最澄は空海の弟子になることを願い、空海がそれを受諾したということです。
仏教界のトップクラスにいた最澄が後輩僧侶の空海の弟子になることを願い出るなんて、よっぽどの覚悟と決断によるものだったはずです。
灌頂は、高雄山寺において、2回にわたって行われました。
11月半ばに金剛界灌頂、12月の半ばに胎蔵界灌頂が行われています。
空海自身が記した『灌頂歴名』によれば、胎蔵界灌頂では、最澄とその弟子21名、沙弥(しゃみ:未成年の男子の出家者)37名、在家者41名、童子(子ども)45名の合計145名の名前が見られます。
これで最澄と空海は師弟関係になったのでした。
最澄と空海の関係がもっとも良好だった時期だったと言えるでしょう。
高雄山寺における灌頂は、空海の名前とともに、朝廷はもちろん、世間に広く知れ渡りました。
そして、空海は、これをきっかけとして、真言密教の布教に努め、真言宗を開くことになったのです。
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最澄と空海の関係は疎遠に
高雄山寺での灌頂によって、最澄は空海の弟子となりました。
そこで最澄は空海に訊ねました。
「高雄山寺で何年修行したら、(密教の奥義を伝授され、弟子を持つことが許される)伝法灌頂を受けることができますか?」
これに対して空海は「3年」と答えました。
密教の奥義は相当の修行を積んだ僧にしか理解できないようなので、最澄以外の僧侶なら「30年」などという答えが返ってきたはずです。
でも、好意的にとらえれば、最澄は日本最高峰の優秀な僧侶だから、空海は「3年」で充分という意味で答えたのかもしれません。
しかし、いずれにせよ、すでに天台宗を開いていて、そのリーダーとして多忙だった最澄に3年も修行する時間はなかったのでしょう。
最澄は何人かの弟子を高雄山寺に残して密教の修法を学ばせ、自分自身は比叡山へ戻りました。
しかし、最澄は、密教の奥義を知りたいと強く願っていました。
その後も、空海に文献の借用を申し出ています。
この時点で空海は、最澄に対する違和感を抱いていたと思われます。
そして、最澄と空海の立場の違いを鮮明にする出来事が起こります。
813年11月、密教の根本経典の1つである『理趣経』(りしゅきょう)の注釈書である『理趣釈経』(りしゅしゃくきょう)を貸してほしいという最澄の申し出を、空海が断ったのです。
もっとも空海は、冷たくあしらうように断ったわけでは決してありません。
最澄に対して、長文の返事を書き、『理趣釈経』を貸し出せない理由を丁重に、ていねいに、そして論理的に説明しました。
おそらく空海は、密教とは経典を読み、書き写して学ぶだけでは不十分で、同時に密教の実践を積んでいかなければならないということを、最澄に伝えたかったのでしょう。
最澄ほどの高僧ならば、そうしたことはわかっていたとは思いますが、自身が開いた天台宗に含まれる密教の足りない部分を補完したいという強い意思が、『理趣釈経』を貸し出してほしいという申し出につながったのだと思います。
この出来事がきっかけで、最澄と空海の関係は疎遠になっていきます。
翌年の814年以降、最澄は空海から借りた文献を返す一方になり、817年以降の最澄と空海のあいだの書簡は残っていないようです。
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最澄と空海の関係は決裂
最澄と空海の関係は疎遠になっていきましたが、ついに、2人の関係は最澄の愛弟子の泰範(たいはん)をめぐって決裂してしまいます。
泰範というのは、東大寺で得度(とくど:僧侶となって出家すること)し、比叡山の最澄のもとで修行した僧です。
812年に最澄は、大きな病気にかかり遺書を書きましたが、そのなかで泰範を自身の後継者に指名しています。
最澄が命を落とすことはありませんでしたが、泰範は、どうやら最澄から後継者に任ぜられたことで他の僧侶たちからねたまれ、居づらくなったようで、比叡山を下りてしまいました。
それでも最澄からの信頼は厚く、812年の高雄山寺における胎蔵界灌頂に最澄から薦められて参列し、空海から灌頂を受けています。
そして、おそらく最澄の意思に従い、そのまま空海のもとに残り、密教の修行に努めます。
813年には金剛界灌頂を受け、真言宗の僧侶となりました。
泰範の心は空海と真言宗へだいぶ傾いていたのではないかと推測しますが、最澄はその後も泰範へ手紙を送っていました。
天台宗に含まれる密教の不完全な部分を、泰範が体得した真言の教えによって補完したかったからではないでしょうか。
816年5月、最澄は泰範に対して、天台宗と真言宗のあいだに優劣はなく、根本的な相違もない、比叡山へ戻って、もう一度いっしょに仏道に励もうと呼びかけました。
この手紙に対して、空海が返信します――
〈天台宗と真言宗はまるで異なる。泰範が真言密教に励んでいることを責めないでほしい〉
真言宗は天台宗よりも優れていて、その真言宗で修行している泰範を返す気はないと受け取れる空海からの返信です。
これで最澄と空海の関係は決裂することになりました。
そして、その後、真言宗の修行に懸命に励んだ泰範は、「空海の十大弟子」「四哲」と呼ばれるまでの高僧となったのです。
こうした泰範をめぐる出来事は、空海が最澄の愛弟子を奪い取ったかのように見えます。
しかし、泰範がみずから比叡山を下りていること、胎蔵界灌頂のあとに高雄山寺に残った最澄の弟子たちのうち泰範だけがずっと空海のもとに残ったことを考えると、泰範自身の偽らざる選択だったように思えます。
一方、最澄は、比叡山を継がせようと考えていた愛弟子がもう戻ってこないという現実に直面して、とても嘆き悲しんだのではないでしょうか。
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まとめ
- 空海が高雄山寺へ入った809年、最澄が空海に文献の借用を願い出たのが2人の関係の始まり
- 最澄は空海に弟子となることを願い出て、812年に師弟関係に
- 813年、最澄の文献借用の申し出を空海が断り、2人の関係は疎遠に
- 816年、最澄の愛弟子・泰範の比叡山への帰還を空海が断り、2人の関係は決裂
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