丹羽長秀は寄生虫で死んだ!?子孫の二本松藩は?〝×印〟の家紋の意味に迫る!

丹羽長秀 大名/武士
  • 丹羽長秀(にわ・ながひで)は、織田信長の重臣で、のちに豊臣秀吉の政権でも重要な位置にいた武将です。
  • 死因は、天正13年(1585)に「積寸白」(せきすばく/寄生虫病)のために亡くなった、と説明されることが多いです。
  • 家は嫡男(長男)の丹羽長重(にわ・ながしげ)が継ぎ、丹羽家は江戸時代に二本松藩(福島)の藩主として知られるようになります。
  • 家紋は〝×印〟のように見える「直違(すじかい)紋」(丹羽直違紋)が有名です。

この記事では、「寄生虫」(死因)「子孫」「家紋」の3つのキーワードに即しながら、予備知識ゼロでも丹羽長秀のことがわかるように解説していきます^^

丹羽長秀は寄生虫で死んだ!?「積寸白」とはどんな病気か?

丹羽長秀はどんな人?

丹羽長秀は、織田信長の家臣の中でも、かなり早い時期から信長を支えた人として知られています。

織田信長が勢いを増していく時代に、戦いだけでなく、城や領地のまとめ役としても働いた――

丹羽長秀には、そんな〝実務ができる武将〟のイメージがあります。

また、丹羽長秀は「織田四天王」の1人として紹介されることもあります。

織田信長が本能寺の変で亡くなったあとは、豊臣秀吉のもとで大きな領地を持つ大名になった、と説明されることもあります。

このように丹羽長秀は、〝信長の時代〟と〝秀吉の時代〟をまたいで活躍した人物の1人です。

丹羽長秀の死因は「積寸白」説が有力

丹羽長秀は、天正13年(1585)に「積寸白」(せきすばく:寄生虫病)で亡くなったという説が有力です。

年齢は51歳(数え方の違いで歳が変わる場合があります)。

ここで「寄生虫病ってなに?」と思いますよね。

今の日本だと寄生虫がどんなものかわからない人が多いかもしれませんが、昔は今にくらべて衛生状態がよくなく、食べ物の管理がずさんだったので、寄生虫が身体に入ってしまうことがありました。

寄生虫のなかで、消化管(おなかの中)に棲みつく虫の代表に、サナダムシ(条虫)がいます。

サナダムシは、古い時代の日本では「寸白(すばく)」と呼ばれていたようです。

つまり、「積寸白」とは、当時の医療の言葉で〝寄生虫に関係する病気〟を指している、と理解しておけばいいと思います。

ちなみに、丹羽長秀の最期については、読み物としてインパクトのあるエピソードが紹介されることがあります。

たとえば、痛みに耐えきれずに病気でできた〝しこり〟を自分でえぐり出したなど、グロテスクな表現で語られる例があります。

この章のまとめ

  • 丹羽長秀は1585年に亡くなったとされる
  • 死因はたいてい「積寸白」(寄生虫病)と説明される
  • 「寸白」は寄生虫(サナダムシ)を指す古い呼び名として知られる

名将の最期が、血の匂いよりも〝生活の病〟の匂いをまとっているのが、逆に生々しいと思います。

歴史上の偉人が、ふと私たちと同じ人間に感じる瞬間がありますが、私はこのエピソードに、その冷たさと哀しさを感じます。

丹羽長秀の子孫の丹羽長重は二本松藩主として丹羽家を存続

丹羽長秀のあとを継いだのは、嫡男(ちゃくなん)の丹羽長重です。

父の死後に大領を受け継ぎますが、豊臣秀吉から「丹羽家の家臣が軍令(ぐんれい:戦の命令)に違反した」「丹羽家に謀反(むほん)の疑いがある」といった疑いをかけられたりして領地を大きく減らされ、のちに改易されて一度は浪人になります。

それでも徳川家康の時代に大名として復帰し、棚倉や白河で城づくりに関わりながら家を立て直しました。

その後、丹羽家は子の代で二本松(現在の福島県二本松市)へ移り、江戸時代には二本松藩主として知られるようになるのです。

二本松の丹羽家の基礎の多くは、丹羽長重が苦労して築き上げました。

二本松市の資料には、二本松藩主・丹羽家に関する説明があり、地域の歴史のなかに丹羽家が登場します。

しかし、丹羽長重が大きく領地を減らすなど、丹羽家は〝浮き沈み〟激しかったようです。

とはいえ、二本松の丹羽家は、現代の当主=「第18代当主」にいたるまで脈々と存続してきました。

丹羽家は〝歴史上の家〟として、また〝地域の記憶〟として存在しつづけてきたのでしょうね。

この章のまとめ

  • 丹羽長秀の死後、家は丹羽長重が継いだ
  • 丹羽家は二本松藩主として知られる

領地が増えたり減ったりしても、「丹羽」という家名は廃れずに次の時代へ継承されていきます。

領地の境目は変動しても、家に代々継承されてきた願いだけは変動しないのかもしれません。

二本松の風のなかに、名もなき日々を積み重ねた丹羽家の時間が、今もかすかに続いている気がしてなりません。

丹羽長秀の家紋は直違(すじかい)紋

丹羽長秀の家紋は、ひと目で覚えやすい「×」の形

丹羽長秀の家紋としてよく知られるのが、「丹羽直違紋(にわすじかいもん)です。

見た目は、2本の線を交差させた〝×印〟の形で、とても覚えやすい家紋です。

家紋の解説では、直違(筋違)は建物の補強部材である「筋交い」を指し、たいていは「家を守る」意味合いがあると説明されます。

丹羽直違紋は、二本松藩丹羽氏の定紋として丹羽直違」、また、丹羽家の家紋として「直違紋」(違い棒)と呼ばれることがあります。

家紋の意味とは?

ところで、家紋はなぜあるのでしょうか?

家紋が生まれた要因の1つに、朝廷の貴族(公家)たちが、衣装や家具などに、自分好みの文様をあしらって装飾したことがあります。

それがのちに、その家を表すシンボルマーク的存在となっていきました。

このことから、家紋は言葉より先に家を名乗る〝印〟だと、私は思います。

直違の「×」は、交差して支える形で、見ているだけで〝踏ん張り〟が伝わってきます。

戦(いくさ)の世でも、平和の世でも、家を守るのは派手な勝利ではなく、揺れを受け止める骨組みでなのだ――

そんな想いを丹羽の人びとが抱きながら、二本松の空の下で、この小さな「×」を何度も掲げていたのだとしたら、想像するだけで胸の奥が少し熱くなります。

丹羽長秀が印象に残る武将になった理由とは?

丹羽長秀は、織田信長のそばで実務をこなし、秀吉の時代にも名前が出てきます。

つまり、歴史の大きな転換点に何度も登場する名前なのです。

その一方で、「積寸白」(寄生虫病)で亡くなったという少し珍しいエピソードがあるために、強い印象を与えた人物となったのかもしれません。

また、家紋の直違紋は見た目が分かりやすく、二本松という土地の歴史にも結びついているため、今でも「丹羽=直違紋」という形で覚えられています。

こうした事情が重なり、丹羽長秀は印象に残る武将になったのだと、私は推測します。

まとめ

最後に、もう一度だけ、ポイントを短くまとめます。

1)寄生虫(死因)

丹羽長秀が1585年に亡くなったときの死因は「積寸白」(寄生虫病)と説明されることが多い。

2)子孫

丹羽家の跡は嫡男の丹羽長重が継ぎ、丹羽家は二本松藩主として知られていく。

3)家紋

家紋は〝×印〟の直違(筋違)紋(丹羽直違紋)で、二本松藩丹羽家の定紋としても紹介される。

ところで、この記事を書きながら私がいちばん感じたのは、歴史の面白さは「派手な事件」だけではなく、むしろその裏にある〝暮らしの温度〟に宿るということでした。

信長のそばで働いた丹羽長秀も、家をつないだ丹羽長重も、結局は1人の人間として、痛みや不安や責任を抱えながら人生を歩んでいたはずです。

寄生虫という生活に近い病、領地を削られても潰(つい)えない家、たった1つの「×」の家紋に託された〝踏ん張り〟——

それらを思うと、遠いはずの戦国が急に近く感じられます。

歴史は、勝者の物語だけでできていない。

名もなき日々の積み重ねが、家と土地と記憶をつないでいく。

二本松の風の中に、今もどこかで丹羽の時間が続いている。

そう想像できた瞬間、私はこの人物を確かな息づかいのある存在として理解し直した気がしました。

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