戦国時代には多くの有名武将がいますが、そのなかでも独特の存在感を放つのが藤堂高虎(とうどう・たかとら)です。
主君を何度も変えながらも生き残り、最後には徳川政権下で大名として大きな成功を収めました。
裏切り者という印象を持たれがちな人物ですが、実際の藤堂高虎は非常に現実的で、時代を読む力に優れた武将でした。
また、藤堂高虎は城づくりの名人としても知られ、日本各地に多くの名城を残しています。
この記事では、藤堂高虎の生き方や大河ドラマでの描かれ方、築いた城について、詳しく考察していきます^^
藤堂高虎は何がすごい?どん底の浪人から家康の最期を看取る〝最高の腹心〟へ上り詰めた、時代を見抜く眼力
藤堂高虎は、1556年に近江(おうみ:現在の滋賀県)で生まれました。
家は没落寸前で、藤堂高虎は決して恵まれた立場ではありませんでした。
浅井長政(あざい・ながまさ)に仕え、1570年の姉川の戦いなどで武功を挙げますが、浅井家が滅亡すると、主家を失い放浪の身となります。
この不遇の時代を経験したことが、藤堂高虎の現実的な判断力を育てたといえるでしょう。
藤堂高虎の人生を大きく変えたのが、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)との出会いです。
豊臣秀長は実務能力に優れた人物で、藤堂高虎の働きを正当に評価しました。
藤堂高虎は各地の合戦で功績を重ねるだけでなく、統率力や判断力を発揮し、豊臣秀長の腹心として成長していきます。
藤堂高虎にとって豊臣秀長は、「この人のために尽くしたい」と思えた主君でした。
1591年に豊臣秀長が亡くなると、藤堂高虎はその嫡男・豊臣秀保(ひでやす)を支えますが、豊臣秀保は17歳という若さで急死してしまいます。
主君親子を相次いで失った藤堂高虎は、深い失意から出家し、高野山に籠(こ)もるほどでした。
この行動からも、藤堂高虎が利害ではなく〝人〟に仕える武将であったことが分かります。
その後、豊臣秀吉に請われて復帰した藤堂高虎でしたが、豊臣秀吉の死後は、次第に徳川家康へと接近していきます。
藤堂高虎が徳川家康についた理由は、たんなる保身ではありません。
豊臣政権ではもはや豊臣秀長のように信頼し合える主君が存在せず、政権の不安定さも明らかでした。
一方の徳川家康は、戦乱を終わらせる現実的な統治者であり、藤堂高虎はそこに〝長く仕える主君像〟を見いだしたのだと思います。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川方として活躍し、その後も築城や政務で幕府を支えます。
1616年、外様大名(とざまだいみょう)でありながら徳川家康の臨終に立ち会いを許されたことは、藤堂高虎がどれほど信頼されていたかを示しています。
1630年、病気により75歳で生涯を閉じた藤堂高虎。
その藤堂高虎のすごさとは、戦国という混沌した時代において、誰に、どのように仕えるべきかを見極め、最後まで役割を果たし続けた点にあります。
藤堂高虎は、力だけでなく〝人を見る目〟で時代を生き抜いた武将だったのです。
藤堂高虎は大河ドラマでどう描かれたのか?『豊臣兄弟!』から『葵 徳川三代』まで
藤堂高虎は、大河ドラマでもたびたび登場し、物語に深みを与える存在として描かれてきました。
『豊臣兄弟!』(2026年)
藤堂高虎にとって豊臣秀吉と豊臣秀長の兄弟に仕えた時代は、もっとも充実した時期だったと言えるでしょう。
藤堂高虎は豊臣秀長を支える重要な家臣の1人として描かれると考えられます。
内政・軍事の両面に通じた現実主義者として、理想を掲げる豊臣秀吉と実務を担う豊臣秀長を現場で補佐し、豊臣政権の安定を体現する存在として描かれるのではないでしょうか。
『武蔵 MUSASHI』(2003年)
『武蔵 MUSASHI』における藤堂高虎は、徳川家康に仕える重臣として、冷静沈着で計算高い現実主義の武将として描かれています。
藤堂高虎は、理想や情よりも天下の趨勢を重視し、戦乱を早く終わらせるために最善の選択を取ります。
戦乱の世から平和な時代へと移る時代の価値観を象徴する存在となっています。
『葵 徳川三代』(2000年)
『葵 徳川三代』では、藤堂高虎は徳川家康を支える有力大名の1人として登場します。
この作品では、現実的で冷静な武将として描かれ、関ヶ原以後の政治的な動きにも深く関わります。
徳川家康に対して率直に意見を述べる姿は、たんなる家臣ではなく、信頼されたパートナーであったことを感じさせます。
藤堂高虎の城一覧徹底紹介!今治・宇和島・伊賀上野など、地形を支配した「築城名人」の驚異的な手腕
藤堂高虎は、豊臣秀長のもとで実戦を通じた築城術を学び、生涯で20を超える城の築城・修築に関わった「築城名人」として知られています。
地形を巧みに生かし、防御だけでなく補給や統治まで見据えた合理的な城づくりが特徴です。
猿岡山城
猿岡山城(さるおかやまじょう:別名、粉河城)は、現在の和歌山県紀の川市にあり、藤堂高虎が城づくりの経験を積んだ初期の重要な拠点です。
中世山城を基盤としながらも、石垣の使用や曲輪(くるわ)配置の工夫など、近世城郭への転換が試みられた点が特徴で、藤堂高虎の築城思想の出発点といえます。
赤木城
赤木城は、現在の三重県熊野市にあり、当時の熊野地方で頻発した一揆を鎮圧するための軍事拠点として築かれた山城です。
尾根を利用した山城形式を基本としながら、石垣を多用し、中世と近世の要素を併せ持つ構造となっています。
藤堂高虎の〝威圧による支配〟という現実的な統治観が表れています。
宇和島城
宇和島城は、現在の愛媛県宇和島市にあります。
既存の城郭を大改修する形で築かれ、不均等な五角形の外郭という独創的な構造を持つ城です。
上空からでなければ形状が分からない巧妙な設計は、敵の偵察を欺くための工夫とされています。
海に面した立地を活かした防御も特徴で、藤堂高虎の地形把握力と実戦を見据えた築城思想が色濃く反映されています。
大洲城
大洲城は、現在の愛媛県大洲市にあります。
この大洲城では、川に囲まれた地形を最大限に活用し、天然の堀として取り込む大改修が行われました。
中世以来の城郭を、近世城郭として再構築した点が特徴で、防御力と居城性を両立させています。
藤堂高虎はこの城を自身の居城とし、実際の統治を通じて城の完成度を高めました。
今治城
今治城は、現在の愛媛県今治市にあります。
藤堂高虎の築城技術の集大成とも言える城です。
海水を引き入れた広大な堀を持つ水城で、海上交通と防衛を両立させています。
直線的な高石垣や層塔型天守、升目状の城下町設計など、新技術を多数導入し、短期間で効率的に築城できる近世城郭の完成形を示しました。
甘崎城
今治城と同じく愛媛県今治市にある甘崎城は、瀬戸内海の要衝に位置し、伊予支配の拠点として改修された城です。
海賊の城としての性格を持ち、海上支配と防衛を重視した構造となっています。
藤堂高虎は地形を活かしつつ、城の機能を整理し、地域統治に適した形へと整備しました。
津城
津城は三重県津市にあり、別名を安濃津城(あのつじょう)といいます。
この津城では、城郭の大改修に加え、城下町整備が本格的に行われました。
石垣の強化や櫓(やぐら)の増設により防御力を高める一方、武家屋敷や町人地を整然と配置し、政治・経済の中心として機能させた点が特徴です。
藤堂高虎の築城技術が、都市計画へと発展した代表例であり、藤堂氏の本拠として長く繁栄しました。
伊賀上野城
伊賀上野城は、現在の三重県伊賀市にあります。
大坂の豊臣方に備えるための軍事拠点として大規模に改修された城です。
特に高さ約30メートルにも及ぶ高石垣は圧巻で、防御力と威圧感を兼ね備えています。
城域は従来の約三倍に拡張され、櫓を多数配置するなど徹底した要塞化を図ります。
徳川政権の西の守りとして重要な役割を担いました。
徹底したリアリスト・藤堂高虎:義理だけでは生き残れない
藤堂高虎が城づくりや政治に残した功績は、今も各地に形として残っています。
主君を変えながらも信頼を失わなかったのは、築城という確かな技術でみずからの価値を高めていたからだと思います。
藤堂高虎は、義や忠誠だけでは語れない武将です。
その現実的な判断と先を読む力があったからこそ、戦国から江戸へという激動の時代を生き抜くことができたのでしょう。
時代の流れを正確に読み、家と領地を守るために最善の選択をした姿は、多くの武将とは異なる魅力を放っています。
派手な英雄ではありませんが、戦国時代のもう1つの生き方を示してくれる人物だと言えるでしょう。
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