「本能寺の変」(ほんのうじのへん)は、織田信長が天下統一の最終盤にいた瞬間、家臣の明智光秀に急襲されて命を落とした事件です。
一夜で歴史が反転し、謎が多く残っているため、歴史ファンを魅了し続けています。
けれど実際は、京都という都市の条件、織田政権の配置、明智光秀の立場と焦り、そして偶然が重なって起きた〝政治の事故〟でもありました。
今回は本能寺の変を〝いつ〟〝場所〟〝なぜ裏切った?〟〝遺体はどこ?〟というそれぞれの切り口から詳しく解説していきます^^
最後には、試験対策として、語呂合わせによる覚え方をご紹介しています。
本能寺の変はいつ起きたのか?
本能寺の変は、1582年(天正10年)6月2日の未明に起きました。
事件以前、明智光秀は、中国地方で毛利氏と対峙(たいじ)している羽柴秀吉を支援するように織田信長から命令を受けていました。
しかし、明智光秀は丹波亀山城を出て、夜のうちに軍勢を進め、夜明け前の京都で本能寺を包囲します。
当時の織田信長は、各方面に有力家臣を派遣し、織田政権確立の仕上げに入っていました。
家臣団の地方への配置が進み、京の中心は相対的に警戒が薄れていました。
羽柴秀吉は中国地方、柴田勝家(しばた・かついえ)は北陸、滝川一益(たきがわ・かずます)は関東方面の押さえを担い、丹羽長秀も畿内の政務に関わっていたとされます。
つまり、本能寺の変が起きた時期というのは、織田家臣団が地方へと散らばってしまい、織田信長のいる京都中心の警備が手薄になっていたということです。
天下統一が見えてきたからこそ、織田信長は自身の周辺が逆に見えなくなったのかもしれないと私は思います。
本能寺の変の場所はどこか?
本能寺の変が起きた現場は、京都の「本能寺」と「二条御所」です。
本能寺は、いま建っている寺町御池(京都市役所前付近)に最初からあったわけではありません。
むしろ本能寺の歴史は、京都の災禍(さいか)と都市改造に影響され、何度も移転してきた〝場所の履歴〟そのものです。
創建は1415年で、当初は「本応寺」と称したとされます。
その後、破却や再建を経て移転を重ね、1433年には四条坊門大宮へ移り、寺名を「本能寺」と改めたと伝わっています。
その後、1536年の天文法華の乱で焼失し、のちに一条戻橋の地で再興したとされます。
ここまでの移転は、おおむね火災や争乱といった災禍による遷移です。
そして、本能寺の変が起きた1582年当時の本能寺は、現在地ではなく四条堀川近く(六角〜蛸薬師、西洞院〜油小路に囲まれる一帯)にあったとされ、現在はその推定地周辺に「本能寺跡」の碑が立っています。
そして、本能寺の変のもう1つの舞台が、織田信長の嫡男(ちゃくなん)である織田信忠がいた二条御所です。
明智光秀は〝織田信長を討つ〟だけではなく、〝織田信忠も同時に叩く〟ことで、織田家の反撃の核を失わせようとしました。
ここに、たんなる私怨とは言い切れない政治性が垣間見えます。
本能寺と二条御所という2点は、〝個人暗殺〟よりも〝政権奪取〟に近い動きだったことを示す座標だったのかもしれないと私は思います。
明智光秀はなぜ裏切ったのか?
明智光秀が織田信長を裏切った理由は1つに断定できず、怨恨、不安、政局判断が重なった可能性が高いと思います。
恨み説
よく語られるのは〝恨み説〟で、織田信長からの叱責や屈辱が積み重なったのが要因という見方です。
明智光秀は、織田政権の中枢を担う一方で、羽柴秀吉や柴田勝家といった強力なライバルがいました。
功績の競争が激しくなるほど、次の配置転換や処遇に大きく影響していきます。
織田信長の政権は、結果を出せば一気に引き上げ、停滞すればバッサリ切るというスピード感を持っていました。
明智光秀が抱えた不安は、〝自分の身が明日どうなるか?〟という制度の不安定さと切り離せません。
四国説
また、最近有力になってきた見方として〝四国説〟というのもあります。
これは、織田信長が長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)に与えた領土の保証を撤回し、四国征伐を強行しようとしたことを阻止するため、長宗我部元親と親交の深かった明智光秀が謀反(むほん)を起こしたとする見方です。
交渉役だった明智光秀は、織田信長の方針転換によって窮地に追い込まれたことが背景にあるとされています。
その他の要因
さらに、明智光秀は京都という政治の中心に近い位置にいました。
1582年6月の京都は、織田信長が少人数で滞在し、主力家臣が各地に散っていました。
明智光秀はその条件を、〝一度の賭けで天下が動く〟配置として読み替えたのかもしれません。
だから裏切りは、激情の噴火だけでは説明しきれないのです。
冷たい計算のなかに、屈辱や恐怖が強弱をつけて混ざり、決断をもたらした可能性があります。
そして、明智光秀が掲げたとされる〝敵は本能寺にあり〟は、合図であると同時に、戻れない橋を渡った宣言でもあったのかもしれません。
織田信長の遺体はどこへ?
織田信長の遺体は、炎と混乱のなかで確実な所在が伝わらず、〝見つからなかった〟という形で語られます。
本能寺が焼け落ちるなかで、織田信長の最期は〝自害〟だと語られることがほとんどです。
ただし、当時の状況は、火災と白兵戦と煙で視界が奪われ、誰がどこで倒れたかを確定するのが極めて難しい状況だったと考えられます。
明智光秀の側が遺体を確保できなかったとすれば、権威の象徴を手に入れ損(そこ)ねたことになります。
首級(しゅきゅう:討ち取った敵の首)や遺骸(いがい)は、勝利の証明であり、諸勢力への説得材料でもあるからです。
また、本能寺の焼失は現場を灰にし、証拠の輪郭を曖昧にしました。
この曖昧さが謎を生み、後世にミステリーとして伝わっていったのです。
〝本能寺の変は陰謀だった〟〝織田信長は生き延びた〟といったエピソードが生まれやすいのは、遺体という決定的な証拠が見当たらなかったからです。
ただし、面白い説に飛びつく前に、当時の政治で遺体がどれほど重要だったかを押さえておきたいところです。
遺体が確認できないのは、〝死んでいない〟という意味ではありません。
問題はむしろ、〝死をどう伝え、どう確定するか〟が不安定になる点にあります。
遺体があれば、死を〝証拠つきの事実〟として示せますが、それがないと報告は噂や推測に頼りやすくなります。
そういった曖昧さがいろいろな面白い説や興味深いミステリーを生んでいるのだと思います。
本能寺の炎は、命を奪っただけでなく、死を確定させるための「証拠」まで焼き尽くしてしまったのかもしれません。
本能寺の変を覚えるための語呂合わせ
本能寺の変の語呂合わせには――
- イチゴ(15)パンツ(82)で本能寺
- 以後(15)刃に(82)やられた本能寺
- 一行(15)パニ(82)ック、本能寺
ぜひ覚えるときに使ってみてください。
まとめ
本能寺の変を〝簡単に〟押さえるコツは、結局のところ、要点を線で結ぶことです。
〝1582年(天正10年)6月2日未明〟に、京都の〝本能寺〟と〝二条御所〟で〝明智光秀〟が動いた。
そして、〝織田信長の遺体が確定しない混乱〟が権力の空白を広げ、〝羽柴秀吉〟がそこへ滑り込んだ。
この流れが頭に入ると、細かな説の違いも、立ち位置が分かるぶん整理しやすくなります。
歴史は暗記科目に見えて、実は〝人が決断して動いた結果〟の積み重ねです。
だからこそ本能寺の変は、今もなお私たちに、〝一瞬の選択が世界を変える〟という怖さと面白さを同時に差し出してくるのだと思います。
遠い戦国の話なのに、私たちの胸がざわつくのは、〝信頼〟が崩れる音が今もリアルだからかもしれません。
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