三経義疏をわかりやすく解説!聖徳太子の驚くべき理想国家論

聖徳太子 天皇/皇族/貴族/豪族

三経義疏(さんぎょうぎしょ)は、推古天皇の時代に聖徳太子が著したと伝えられる『法華経』(ほけきょう)『勝鬘経』(しょうまんぎょう)『維摩経』(ゆいまぎょう)の注釈書で、日本最古級の仏教注釈書です。

日本における仏教理解の初期段階を示す重要な文献であり、聖徳太子がどのように仏教を国家理念として位置づけようとしたかを知る手がかりを与えてくれます。

聖徳太子の自筆か否かは古くから議論が続いていますが、その思想的価値は揺らぐことがありません。

この記事では、三経義疏の成立の背景と内容、そして聖徳太子自筆説をめぐる論争や現代的意義について考察します。

三経義疏の内容をわかりやすく紹介♪

聖徳太子は、推古天皇の摂政(せっしょう)として政治を担うと同時に、日本で仏教を受け入れ、広めた思想家でもありました。

聖徳太子が目指したのは、法や制度による支配ではなく、人びとの心を導き、調和ある社会を築くことでした。

『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経はいずれも在家(ざいけ)信者(出家をしていない信者)や女性を尊重する内容をもつ経典で、聖徳太子が理想とした「すべての人びとが共に幸福を実現できる社会」というビジョンと深く共鳴していたのです。

法華経義疏 

『法華経』(ほけきょう)は、すべての人が平等に悟りを開くことができると説いた経典です。

出家・在家、身分や性別の違いに関係なく、だれもが救われるという平等と慈悲の教えが中心にあります。

聖徳太子は『法華経』を国家を治めるための道徳や政治の理念として理解しました。

「すべての人が尊い存在である」という考えをもとに、人びとが互いに尊重し、和を大切にする社会の理想へとつなげました。

仏が教えを説く姿を、聖徳太子は国家の理想的な指導者像と重ねたのだと、私は思います。

民の心に耳を傾け、思いやりをもって政治を行うことこそが、仏の慈悲の実践であり、国を和へと導く道だと聖徳太子は考えたのではないでしょうか。

勝鬘経義疏 

『勝鬘経』(しょうまんぎょう)はインドの王妃(おうひ)である勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が仏法を説き、社会に広めていく姿を描いた経典です。

当時のインドで女性が宗教的指導者になることは異例でしたが、『勝鬘経』は女性や在家信者の尊さを強調し、社会全体で仏教を実践する道を示しました。

聖徳太子は推古天皇を支える立場にあり、女性が国家の精神的支柱となることを肯定的に捉えていました。

当時、女性の天皇の存在を否定的に見る風潮があったなかで、『勝鬘経』のように女性の精神的な力や信仰心を高く評価する経典は、政治を進めるうえでも聖徳太子にとって重要な思想的支えになったと思われます。

維摩経義疏 

『維摩経』(ゆいまぎょう)は、在家信者である維摩居士(ゆいまこじ)が病床で弟子や文殊菩薩(もんじゅぼさつ)と対話し、仏教の核心を語るという物語形式の経典です。

『維摩経』で説かれるのは、俗世(一般の人びとが日常の暮らしをしているこの世)の生活を否定せず、執着しないということです。

つまり、この世のすべての対立は本来ひとつであるから、どちらか一方に偏(かたよ)らず、両方を超えた真実の世界を悟るのが大切だという意味です。

聖徳太子が『維摩経』を注釈したのは、仏教を僧侶だけのものにせず、民衆一人ひとりが日常の中で実践できる教えとして広めようとしたからではないでしょうか

出家をしなくても信仰できるという考え方は、当時の人びとにとっても受け入れやすく、仏教が社会全体に根づく大きなきっかけになったはずです。

三経義疏の狙い

このように、3つの義疏を総合的に見ると、三経義疏はたんなる経典の解説にとどまらず、仏教思想を国家理念に結びつけようとする聖徳太子の意図が明確に表れています。

聖徳太子は、出家・在家、男女の区別なく平等に救われるという教えを通して、国民にわかりやすく仏教の精神を伝えました。

仏教は、政治と社会秩序を支える普遍的な価値観として位置づけられ、日本の思想と文化の根幹を形づくる重要な役割を果たしたのですね。

三経義疏の論争点:聖徳太子の自筆だったのか?

平安時代初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』(じょうぐうしょうとくたいしでんほけつき)によれば、三経義疏は611年から615年にかけて聖徳太子が著したと伝えられています。

現存している原本は『法華義疏』のみで、奈良時代に僧の行信(ぎょうしん)が発見し、法隆寺に納めたとされています。

その後、明治11年(1878年)に皇室へ献上されました。

こうした伝承をもとに、三経義疏が本当に聖徳太子の自筆であるかどうかについて、今日にいたるまで学界では活発な議論が続いています。

他筆説:聖徳太子以外の人物が三経義疏を書いた?

三経義疏の成立については、聖徳太子自筆説を疑問視する人びとは古くからいました。

まず、年代の面から見ると、三経義疏は7世紀初頭の聖徳太子の時代よりも後の成立とみなす見解が定着しつつあります。

戦後の書誌学的研究により、正倉院(しょうそういん)に残る写経記録や紙質、書風などとの比較が行われた結果、三経義疏に用いられた書式や用語が、奈良時代以降の文献に近い特徴をもつことが明らかになりました。

また、敦煌(とんこう)で発見された中国仏典の注釈書群との照合によって、『勝鬘経義疏』が中国北朝期の注釈書と大部分一致することが確認され、当時の日本ではなく、6世紀後半の中国で作成された文献を基にしていることが判明しました。

『法華義疏』や『維摩経義疏』においても、中国僧による先行注釈との重複が多く、独自性が乏しいことから、これらは聖徳太子がみずから編纂したものではないと、他筆説では考えられています。

次に『法華義疏』の文体や書写の技法から見ても、聖徳太子の自筆とみなすことは難しいとされています。

『法華義疏』の文字は速書きに適した実用的な筆致であり、丁寧な楷書というよりは、流れるような行書で書かれています。

これは、文書筆写を専門とする写字生によって書かれたことをうかがわせます。

さらに、文字の間隔や行の配置も整っている点から、思想を練るための草稿ではなく、完成した清書本としての性格をもつことが推測されます。

また、本文の一部には筆致の異なる加筆や修正が見られることから、複数の書き手の関与も指摘されています。

さらに、『法華義疏』の第一巻の巻頭部分には、題名と著者名の部分が切り取られ、別紙が貼り付けられ、「これは上宮王(聖徳太子)による私的な編集である」といった内容の書き込みが見られます。

しかし、この部分の筆致は本文とは明らかに異なり、簡略で粗雑な書き方がされていることから、後世に聖徳太子の著作であることを強調するために付け加えられた可能性が高いとされています。

物質的な特徴からも、後代の写本であることを示している証拠があります。

『法華義疏』の巻軸は装飾のない木製の棒で構成され、裏打ちがほとんど施されていません。

料紙の張り合わせも一定せず、全体的に簡素な造りとなっており、後世の豪華な写経本とは明らかに異なります。

これらの諸点を総合すると、三経義疏は聖徳太子自身の筆によるものではなく、中国で成立した注釈書をもとに日本で書き写され、のちに聖徳太子の名を冠して伝えられたと考えることができるのです。

聖徳太子の時代にまでさかのぼることは難しく、むしろ奈良時代以降、聖徳太子信仰が形成されていく過程で、聖徳太子の権威を象徴する文献として位置づけられたと見るのが妥当だと、他筆説では考えます。

聖徳太子はカリスマ的な存在でしたから、後世の人びとが三経義疏を聖徳太子の偉業の1つとして創り出したのかもしれませんね。 

自筆説:聖徳太子自身が三経義疏を書いた?

一方で、三経義疏を聖徳太子の自筆とみなす立場も、依然として根強く存在しています。

史料的な裏づけとして、奈良時代の公式記録である『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)のなかで、三経義疏が747年の「上宮聖徳法王御製」(じょうぐうしょうとくほうおうぎょせい)だと明記され、8世紀の時点で聖徳太子が著したとされていたことが確認できます。

書写の面でも、本文中には紙の表面を削り、書き直している箇所も確認されます。

こうした点は、著者自身が思考を進めながら書いた草稿であることを示すものと考えられています。

加えて、三経義疏の文体には中国語には見られない日本的な表現、いわゆる「和習」が多く含まれており、日本人による著述であることを示しています

また、第一巻の冒頭には、「これは上宮王の私的な編集である」と明記されています

この書き込みは本文とは筆致が異なるものの、少なくとも奈良時代には三経義疏が聖徳太子の自筆として特別に扱われていたことを示しています。

内容面からも、自筆説を支持する根拠があります。

『憲法十七条』と『法華経義疏』の思想的な近似性も、同一人物の著述とみる根拠とされています。

物理的な証拠としては以下の点が挙げられます。

『法華義疏』の保存状態は極めて良好で、裏打ちがほとんど見られず、制作当初の姿を保っています。

料紙は薄茶色で虫食いもなく、全体の色調が一定であることから、経年変化ではなく当初からの紙色と考えられています。

こういった特徴は中国からの輸入本ではなく、日本国内で制作されたものであることを裏づける要素とされています。

このように、史料・書写・内容・物理的特徴の各側面を総合すると、三経義疏を聖徳太子の自筆とみなす自筆説には一定の説得力があるとされています。

聖徳太子が文章を練り直して加筆修正する姿は、親近感を感じます。

人間味あふれる自筆説も捨てがたいですね。

折衷説:三経義疏は聖徳太子の講義を弟子がまとめた講義録?

近年の研究では、「自筆説」と「他筆説」を対立的に捉えるのではなく、両者を調和させた折衷説が注目されています。

つまり、三経義疏は聖徳太子が思想的な指針や内容の枠組みを示し、実際の筆記や編集は学僧や側近が担ったという見方です。

こうした折衷説においては、三経義疏は〝聖徳太子の講義を弟子がまとめた講義録〟として位置づけられ、当時の知的環境を反映したものだと考えられます。

『法華義疏』に見られる推敲や誤字の訂正も、聖徳太子本人の筆跡ではなく、講義の記録や整理の過程で生じた可能性が高いとされるのです。

したがって、三経義疏は聖徳太子が思想の中核を示し、それを弟子たちが整理・編集して形にした産物と見るのが適切だというのです。

折衷説におけるこうした理解は、聖徳太子の精神的主導性を認めつつ、中国仏教の影響も踏まえた、より現実的で総合的な見方として受け入れられつつあります。

国家の精神的支柱を示すものを聖徳太子1人だけの力でつくりあげることは難しかったのではないかと私も思います。

また、聖徳太子と弟子たちが成し遂げていくあり方は、まさに調和を重視した聖徳太子の思想と一致しているとも思います。

結論は?

このように、三経義疏をめぐる議論は現在も「他筆説」「自筆説」「折衷説」が併存しており、決着がついていません。

中国の注釈書との高い類似性や敦煌(とんこう)写本の存在は偽作・渡来説を裏づける一方で、奈良時代の史料や本文に見られる推敲跡は聖徳太子自筆説を支えています。

今日では、三経義疏は聖徳太子とその周辺の僧侶たちと共に取り組んだ成果物であり、たんに自筆か否かを問うのではなく、その成立過程全体を多角的に理解することが重要であると考えられています。

三経義疏の覚え方はコレ!

三経義疏について覚えるコツは、「法・勝・維」(ほうしょうゆい)と、法華・勝鬘・維摩の頭文字をつなげることです。

さらに、それぞれの特徴を次のように整理するとイメージしやすいでしょう——

  • 法華経義疏 … すべての人は救われるという平等と慈悲の教え
  • 勝鬘経義疏 … 女性の尊厳を認める経典
  • 維摩経義疏 … 在家信者の知恵と実践を説く

このように整理すると、三経義疏が目指した方向性が〝出家者中心の仏教から、在家信者や女性を含むすべての人のための仏教へ〟という流れであることが分かります。

成立時期と伝承を覚える際は、推古のころ(7世紀初頭)の太子の義疏、今残るは法華のみと覚えると便利です。

実際に現存しているのは『法華義疏』のみで、奈良時代に僧・行信が法隆寺に奉納し、のちに明治時代に皇室へ献上されたことが知られています。

一方、三経義疏の自筆説をめぐる論争はいまだに解決していません。

しかし、争いを嫌い「和」を尊んだ聖徳太子が、後世の人びとがみずからの真筆をめぐって論争を引き起こすことを望んだでしょうか。

三経義疏には、〝すべての人が尊く、調和のなかで共に生きる社会〟という聖徳太子の理想を読み取ることができます。

その思想は、対立や権力の偏り、自己統制の難しさが目立つ現代社会においても、なお普遍的な価値を持ち続けています。

三経義疏は現代人が心の在り方や社会の姿を見つめ直すために役立つ貴重な思想遺産だと言えるでしょう

私たちはその精神を受け継ぎ、「和」の理念を実践することで、より調和ある社会を築き、三経義疏の存在価値を高めていけたらいいですね^^

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