「山崎の戦い」は、1582年、織田信長が本能寺で倒れた約10日後に起きた〝日本の歴史の流れを決定した戦い〟です。
織田信長を討った明智光秀が京都という中心地を制圧する一方で、中国地方で毛利氏と対峙(たいじ)していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、誰もが予想だにしない驚異的なスピードで軍を戻し(「中国大返し」)、山崎の地で両軍は激突しました。
この戦いを経て、どのようにして天下の主導権が秀吉へと傾いていったのか?
この記事では、地形がもたらした戦略、集まった〝人の心〟、そして明智光秀の誤算という3つの視点から、戦国最大の転換点であるこの一戦を深く掘り下げていきます^^
山崎の戦いの舞台はどんな場所だったのか?
山崎の戦いの舞台となったのは、現在の京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町にまたがるエリアです。
ここはたんなる野原ではなく、京都と大坂(現在の大阪)をつなぐ西国街道の、とても重要な〝喉元〟(のどもと)でした。
山崎は地形が生んだ〝天然の関所〟
山崎の場所を地図で俯瞰(ふかん)すると、特徴的な構造が見えてきます。
一言で言えば、山崎は地形がギュッと狭まり、くびれているのです。
北側には「天王山」という急峻(きゅうしゅん)な山がそびえ立ち、南側には桂川、宇治川、木津川の3本の大きな川が合流して淀川へと流れ込む湿地帯が広がっています。
そのため、大軍が通れるスペースは、この山と川に挟まれた極めて狭い通路のような場所しかありませんでした。
中国地方から京都を目指す秀吉の軍勢にとって、この山崎は必ず通過しなければならない関門です。
一方、守る側からすれば、どれほどの大軍が押し寄せてきても、この狭い通路で足止めすれば、数的優位を無力化できる〝守りの要害〟でもありました。
現代にも残る「天王山」の重み
特に重要なのが、街道を見下ろす位置にそびえる「天王山」という山です。
この山の頂(いただき)を占拠すれば、眼下の街道を動く敵の布陣を手に取るように把握できます。
逆に、ここを敵に押さえられれば、自分たちの動きは丸わかりになり、上から狙い撃ちされる窮地(きゅうち)に陥ります。
このことから、「天王山を制する者が勝負を制する」という格言が生まれました。
現代でもスポーツや選挙などで決定的な勝負どころを「天王山」と呼ぶのは、山崎の合戦で「天王山」の価値が証明されたからに他なりません。
つまり、山崎は、偶然選ばれた場所ではなかったのです。
明智光秀にとっては、数に勝る秀吉軍の勢いを削(そ)ぐための〝盾〟(たて)として、逆に、秀吉にとっては、京都奪還のためにこじ開けなければならない〝扉〟として、歴史がこの一点に収束する必然性があったのでした。
山崎の戦いは誰と誰の決戦だったのか?数以上に重かった〝心の数〟
表面的な対決構図は、〝織田信長の仇(かたき)〟を討とうとする羽柴秀吉と、〝新しい秩序〟を築こうとする明智光秀の戦いです。
しかし、この戦いの実態を深く読み解くと、たんなる武力衝突ではなく、〝味方を集めきれた者〟と〝味方に背を向けられた者〟の政治的な勝敗であったことがわかります。
「中国大返し」がもたらした衝撃
山崎の戦いの11日前、備中(びっちゅう)高松城(現在の岡山県)で毛利軍を「水攻め」という奇策で追い詰めていた秀吉は、織田信長が落命したことを知ります。
秀吉の凄みは、その瞬間の判断力にありました。
秀吉はすぐさま毛利方と和睦(わぼく)を結びますが、このとき、織田信長の死を徹底的に隠しました。
そして、「城兵の命を助ける代わりに、城主・清水宗治の切腹を求める」という条件で話をまとめると、その足で京都へ向けて軍を返したのです。
これが有名な「中国大返し」です。
秀吉軍は、約200kmという長距離を、わずか1週間あまりで移動しました。
秀吉は道中、織田信長が家臣のために各地に整備させていた「御座所」(休憩施設)や備蓄兵糧をフル活用したと言われています。
また、明智光秀が毛利氏に送った密使を偶然捕らえ、信長の死の知らせを独占できたことも幸いしました。
このスピードこそが、秀吉に最強の武器――〝正義〟と〝勢い〟――を与えたのです。
明智光秀の孤独と誤算
一方の明智光秀は、本能寺の変のあと、着々と京都や近江(滋賀県)を制圧していました。
しかし、明智光秀にとって最大の誤算は、味方になると信じていた者たちが動かなかったことです。
特に痛手だったのは、細川藤孝(幽斎)・忠興(ただおき)父子と、筒井順慶(つつい・じゅんけい)の動向でした。
細川家は明智光秀と親戚関係にあり、筒井順慶も明智光秀の働きかけで地位を得た人物です。
しかし、細川父子は織田信長への弔意(ちょうい)を示すために髪を下ろして中立を貫き、筒井順慶もまた洞ヶ峠(ほらがとうげ)まで軍を進めながら、最終的には秀吉側につきました。
秀吉側には、織田家の重臣である丹羽長秀(にわ・ながひで)や池田恒興(いけだ・つねおき)らも合流します。
このとき、秀吉側についた武将たちの基準となったのは、たんに〝強い方へつく〟ということではありません。
秀吉が掲げた〝信長の仇討ち〟というわかりやすい大義名分こそが、混沌とした状況のなかで彼らが求めていた〝安心できる物語〟だったのです。
明智光秀は、「なぜ信長を討ったのか?」を周囲に納得させる時間を持つことができませんでした。
説得する前に秀吉が現れ、理屈を語る前に刀を突きつけられたのです。
山崎の戦いの推移と〝三日天下〟の終わり
1582年6月13日。
雨が降りしきるなか、ついに羽柴秀吉軍と明智光秀軍は激突します。
兵力差は歴然としていました。
羽柴秀吉軍は約4万。
対する明智光秀軍は約1万6千。
明智光秀は山崎の狭い地形を活かし、円明寺川(えんみょうじがわ)を挟んで秀吉軍の出口をふさぐように布陣しました。
わずか1時間半で決着
午後4時頃、明智光秀方の伊勢貞興(いせ・さだおき)が、秀吉方の中川清秀(なかがわ・きよひで)に襲いかかったことで戦いの火蓋(ひぶた)が切られました。
当初は光秀軍の精鋭である斎藤利三(さいとう・としみつ)らが猛攻を仕掛け、秀吉軍を押し戻す場面もありました。
しかし、勝敗を分ける決定的瞬間は〝川側〟で起こります。
秀吉軍の池田恒興や加藤光泰(かとう・みつやす)らが、密かに淀川沿いを北上。
円明寺川を渡って光秀軍の側面を突く奇襲を成功させたのです。
この一撃によって光秀軍の陣形は崩れ、前線の部隊が敗走を始めると、その動揺は一気に全軍へ広がりました。
狭い地形は、守るときには有利ですが、一度崩れると逃げ場を失うという諸刃の剣(もろはのつるぎ)でした。
さらに、天王山を押さえた秀吉軍に見下ろされるなかでの戦いは、光秀軍の兵士たちに「包囲されている」という心理的圧迫を与え続けました。
そして、わずか1時間半から3時間という短時間で、勝負は決したのです。
明智光秀の最期
明智光秀は命からがら勝竜寺城へと退却しますが、ここは平地にある城で、秀吉の大軍を防ぎきることは不可能でした。
明智光秀は夜の闇に乗じて本拠地である坂本城を目指しますが、その途中の小栗栖(おぐるす)という竹やぶで、落ち武者狩りの農民に襲われ、命を落としたと伝わります。
「三日天下」という言葉は、明智光秀が天下を握っていた時間の短さを象徴しています(実際には11日〜12日ほどの天下でした)。
権力の絶頂から奈落の底へ。
山崎の戦いは、日本史上もっとも鮮烈な〝没落の物語〟でもありました。
明智光秀の敗因となった3つの条件の欠如とは?
なぜ明智光秀は負けたのでしょうか?
一言で言えば、勝利に必要な3つの条件を秀吉にすべて奪われたからです。
つまり、〝時間〟〝大義〟〝地形〟の3つです。
まず、〝時間〟の条件ですが、明智光秀は、政治的な根回しを終える前に戦いを強いられました。
一方、秀吉は「中国大返し」によって、明智光秀に考える隙(すき)を与えませんでした。
次に〝大義〟の条件ですが、秀吉は「仇討ち」(かたきうち)という誰にでも伝わるシンプルな物語を掲げたのに対し、明智光秀の掲げた「新しい天下」は抽象的で、人びとに安心感を与えることはできませんでした。
そして、〝地形〟の条件ですが、明智光秀は狭い山崎を戦場に選んだものの、秀吉はその狭さを逆手(さかて)に取り、人数をかけて出口をふさぎ、側面から叩くことで光秀軍を〝袋のネズミ〟にしました。
つまり、明智光秀の真の敗因は、戦場での采配ミスというよりも、戦いが始まる前の段階で、秀吉の圧倒的な〝情報の速さ〟と〝物語の力〟に屈していたことにあったのだと思います。
まとめ
山崎の戦いを学ぶことは、たんに年号や出来事を覚えることにとどまりません。
〝大きな変化が起きたとき、人は何に惹(ひ)かれ、どのように動くのか?〟という人間心理のメカニズムを知ることでもあります。
秀吉はこの一戦で〝織田信長の正統な後継者〟という地位を不動のものにし、清洲会議(きよすかいぎ)を経て、天下人への道を突き進んでいきました。
一方の明智光秀は、緻密(ちみつ)な知略を持ちながらも、時代の〝速さ〟と〝空気〟を読み違えたために、歴史の闇へと消えていきました。
勝利とは、たんに兵力が大きいことではなく、その兵力が一つにまとまるための〝納得感〟をどうつくることができるかにかかっています。
山崎の戦いは、そんな冷徹な真実を現代人に教えてくれているのだと私は思います。
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