運慶——
読み方は「うんけい」。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をごらんになった方であれば、最終回に、相島一之(あいじまかずゆき)さん演じる運慶が、小栗旬さん演じる北条義時の内面を形象化したかのような、おぞましい異形の仏像を造り、義時をあわれみ笑う印象的なシーンを覚えている方も少なくないはずです。
実際の歴史のなかで、そのようなシーンがあったのかどうかはわかりませんが、運慶は鎌倉武士と深いつながりをもち、ハイレベルな仏像を造りつづけました。
そんな運慶の生涯をわかりやすくご紹介します^^
運慶の生涯:誕生~20代
運慶が生まれたのは、平安時代末期。
1150年前後ではないかと推測されています。
奈良を活動拠点とする「奈良仏師」の1人である康慶(こうけい)の子として生まれました。

当時、仏師(ぶっし:仏像を彫る職人)の主流派は、京都を活動拠点とし、朝廷や貴族が好む仏像を制作する「院派」(いんぱ)と「円派」(えんぱ)でした。
一方の奈良仏師は、飛鳥時代や天平時代につくられた既存の仏像の修理が主な仕事で、院派と円派にくらべ、弱い立場にありました。
しかしながら康慶は、奈良仏師でありながら後白河法皇の蓮華王院五重塔の仏像を制作し、その功績が認められ、第3位の僧位である法橋(ほっきょう)を授けられ(1177年)、評価を高めていきました。
康慶はなかなかの実力者だったんですね。
このころ、運慶はおそらく20代半ばで、父・康慶の指導のもと、円成寺(えんじょうじ:現在の奈良市)の大日如来坐像を制作しました(1176年)。
運慶のデビュー作です。
像の台座の裏には、「大仏師康慶実弟子運慶」(大仏師の康慶の実の子どもで弟子の運慶)と書かれています。
また、造像の報酬として、上等な絹をたくさんもらったとも書いてあります。
そんなことまで書くなんて、運慶はよほどうれしかったにちがいありません。
大日如来坐像がつくられた3年前には息子の湛慶(たんけい)が生まれているので、円城寺の大日如来坐像は運慶にとって、とても思い入れがあったはずです。
だから、思わず筆が進んだのだと思います。

運慶の生涯:30代
運慶の30代は、1180年代。
時代は、平清盛(たいらのきよもり)の命を受けた平重衡(たいらのしげひら)たちの平家軍が、反平家勢力の拠点であった東大寺や興福寺など奈良の仏教寺院を焼き討ちにした事件(南都焼き討ち)が起きたころです(1181年)。
この事件を境に、平家は滅亡への道を進み、代わって源頼朝が鎌倉幕府を確立していきます。
運慶の活躍が加速するのも、ちょうどこの時期です。
1186年には、興福寺西金堂に釈迦如来像を搬入。
さらに、源頼朝の義父である北条時政の発願で、願成就院(静岡県)の阿弥陀如来坐像、不動明王立像、矜羯羅(こんがら)童子立像、制吒迦(せいたか)童子立像、毘沙門天(びしゃもんてん)立像を制作します。
これら5体は、運慶が東国でつくった最初の仏像でした。
運慶は30代にして、鎌倉幕府や東国の武士たちとの結びつきを強めていったのでした。
運慶の生涯:40代
40代になると、源頼朝の側近だった和田義盛とその妻の願いで、浄楽寺(神奈川県)の阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像を制作します。
その後、運慶は、源頼朝が復興を支援していた東大寺の大仏殿に安置する仏像を、父・康慶をはじめとする慶派(けいは:康慶に始まる仏師の一派)の仏師たちとともにつくっていきました。
その結果、慶派は大躍進します。
このころの慶派は、新進気鋭の一派で、飛ぶ鳥も落とすすごい勢いで活躍したのだと推察されます。

一方で、運慶は、1193年には康慶から譲られ、法橋(ほっきょう)の僧位を与えられたようです。
また、1195年には、法眼(ほうげん)という第2位の僧位を与えられています。
運慶が仏師として揺るぎない地位を得たのが、この40代だったと言えるでしょう。
運慶の生涯:50代
1200年からの10年間、運慶はついに名実ともに仏師の頂点へ上り詰めます。
とりわけ、1203年が運慶にとってピークとなる年でした。
まず、「名」(名誉)においては、東大寺の総供養で、最高の僧位である法印(ほういん)を与えられました。
一方、「実」(実力、実績)においては、快慶(かいけい)や定覚(じょうかく)、湛慶らとともに、東大寺南大門の金剛力士立像を制作しました。
「運慶の作品は?」と訊かれて、「金剛力士像(仁王像)!」と答える方は多いと思いますが、まさに運慶の代表作中の代表作が、この1203年に誕生したのでした。
また、運慶が50代終わりか60代にさしかかる1212年には、興福寺北円堂の弥勒如来坐像、無著(むじゃく)菩薩立像、世親(せしん)菩薩立像という著名な仏像を制作しています。
運慶にとって充実の50代だったのではないでしょうか。
運慶の生涯:60代
運慶は60代に入っても、その活力は衰えませんでした。
1213年には、白河天皇が1076年に建立した法勝寺(ほっしょうじ)の九重塔の仏像を、息子・湛慶とともに制作します。
同じ年、その湛慶に法印の僧位を譲渡。
これは、慶派が長く存続するように願った運慶の戦略ではないでしょうか。
1216年には、3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の乳母であった大弐局(だいにのつぼね)が発願した、称名寺光明院(神奈川県)の大日如来像、愛染明王像(現存せず)、大威徳明王坐像を制作しています。
1218年には、北条義時が発願した鎌倉・大倉薬師堂の薬師如来像を制作(現存せず)。
1219年には、暗殺された実朝を弔うために北条政子が発願した勝長寿院五仏堂の五大尊像(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)を制作しました(現存せず)。
60歳を越して、これだけ精力的に仏像を制作しつづけた運慶は、強い使命感に駆られていたのかもしれませんね。
運慶の生涯:70代
運慶が70歳になるかならないかの1221年、後鳥羽上皇が2代執権・北条義時に対して兵を挙げた「承久(じょうきゅう)の乱」が起きます。
この乱は鎌倉幕府側の圧勝でしたが、運慶は乱の直前に、幕府支持の姿勢をとりました。
その運慶の姿勢が、慶派安泰の大きな要因となったことはまちがいないでしょう。
運慶は、その2年後の1223年12月11日、70代前半にしてこの世を去りました。
仏像制作にすべてを捧げ尽くした運慶の人生は、まさに完全燃焼だったと思います。
1229年、息子の湛慶は、運慶とその妻の冥福を祈って、京都・地蔵十輪院の阿弥陀如来像を制作しています。
湛慶にとって運慶は、尊敬できる父であるとともに、偉大な師であったはずです。
その想いが存分に込められた阿弥陀如来像だったのではないでしょうか。
まとめ
- 運慶は20代半ばに大日如来坐像(円成寺)でデビュー
- 30代には北条時政の願いで仏像を彫るなど、鎌倉幕府や東国武士たちとの結びつきを強める
- 40代には東大寺大仏殿の仏像を彫るなど、仏師として揺るぎない地位を確立
- 50代で最高の僧位である法印を授けられる一方で、のちに最高傑作と言われる東大寺南大門の金剛力士立像を制作
- 60代にも鎌倉幕府関係者の願いで多数の仏像を制作
- 70代前半でこの世を去る
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