運慶作品31体をわかりやすく解説!

運慶、作品、場所、国宝、特徴 運慶

この記事を書いている2025年6月現在、運慶作品だと確定しているものと、運慶作品の可能性が高いものは、合わせて31体あります。

この記事では、これら31体について、運慶が制作した順にご紹介していきます^^

この記事を読めば、あなたはちょっとした〝運慶通〟になれますよ♪

運慶作品(1):円成寺(奈良県) 大日如来坐像

Dainichi Nyorai Unkei Enjoji 1

運慶のデビュー作です。

国宝です。

完成は1176年。

台座の裏に「大仏師康慶実弟子運慶」(大仏師・康慶の実の子どもで弟子である運慶)と書いてあることから運慶の作品であることがわかっています。

像の高さは93.4cm。

それほど大きくはありませんが、肌にハリがあり、均整がとれた引き締まった体つきをしています。

眼は水晶を入れた玉眼(ぎょくがん)のため、まるで生きているかのような輝きと潤いがあります。

頬はハリがありながらもふっくらとして若々しく、背筋が伸びた美しい姿勢をしています。

そして、手は高い位置で智拳印(ちけんいん:金剛界大日如来が結ぶ印)を結んでいます。

表面は金箔(きんぱく)が剥げて下地の漆(うるし)が見えていますが、完成当初は金箔に覆われ、ピカピカと輝く容姿だったにちがいありません。

完成当初の姿を見てみたかったですね。

きっと美しかったにちがいありません。

なお、大日如来坐像は、父・康慶の指導のもと、運慶が20代のときに造ったと推測されています。

運慶は11ヵ月かけて、じっくりと制作に取り組んだようです。

▼円成寺・大日如来坐像についてくわしく知りたい方は、こちら↓↓↓

円成寺・大日如来坐像は運慶のデビュー作!
「天才仏師」と呼ばれた運慶のデビュー作は、奈良の山間の円成寺(えんじょうじ)にひっそりとたたずんでいます。その名は、大日如来坐像。どのような経緯で造られ、どのような特徴があるのか、わかりやすく解説します。

運慶作品(2)〜(6):願成就院(静岡県) 阿弥陀如来坐像、不動明王立像、矜羯羅童子立像、制吒迦童子立像、毘沙門天立像

1186年から制作が始まっています。

運慶30代の作品群です。

すべて国宝です。

ちなみに、円成寺の大日如来坐像を制作したあとの約10年間、運慶が何をしていたのかはよくわかっていません。

父・康慶のもとで一心不乱に仏像制作の腕を磨いていたのだと、私は思います。

阿弥陀如来坐像

像の高さは142cm。

肉づきがよく、でっぷりとして重量感があります。

衣のひだが深く彫られているのが特徴です。

私は実物を見たことがありますが、静かに坐しているにもかかわらず存在感がありました。

手は説法印(せっぽういん)を結んでいますが、両手を上げた状態なのが珍しいです。

ただし、指が欠けています。

また、如来特有の、ブツブツとした頭髪の塊もいくつか欠けています。

これは、かつて像が前に倒れてしまった影響のようです。

不動明王立像、矜羯羅童子立像、制吒迦童子立像

不動明王立像、矜羯羅童子立像、制吒迦童子立像の3体は、阿弥陀如来坐像の、向かって左側に安置されています。

不動明王立像は、像の高さが81.4cm。

不動明王立像は、ふつう羂索(けんさく:仏の言うことをきかない者を捕らえる縄)を持った左手は下げているものです。

しかし、この不動明王立像は、その左手を胸の高さまで上げています。

そのために、不動明王立像の向かって右側にいる矜羯羅(こんがら)童子立像(像高77.9cm)が不動明王立像におとなしく寄り添うように安置されています。

一方、不動明王立像の向かって左側には制吒迦(せいたか)童子立像が安置されています。

制吒迦童子立像(像高81.8cm)はヤンチャそうな格好をしていて、右側の矜羯羅童子立像とは対照的です。

これら3体を合わせて「不動三尊」と呼びますが、現地でじっと観ていたら、3体の配置の仕方に運慶なりに計算されたバランスを感じました。

毘沙門天立像

毘沙門天立像は、阿弥陀如来坐像の、向かって右側に安置されています。

像の高さは148.8cm。

ハリがある若々しい顔つきで、たくましい体つきをしています。

運慶が東国武士好みに造ったのだと思われます。

右手には三叉戟(さんさげき:3つの穂がついた棒状の武器)を持ち、左の手のひらには宝塔を載せています。

そして、足元では邪鬼が2匹、毘沙門天に踏みつけられています。

今にも動き出しそうな格好をしていて、私は5体のなかでもっとも魅力を感じました。

運慶作品(7)〜(11):浄楽寺(神奈川県) 阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像、不動明王立像、毘沙門天立像

これら5体(重要文化財)は、鎌倉幕府の侍所別当だった和田義盛とその妻の依頼で造像されました。

1189年3月20日に、運慶が小仏師10人を率いて造っています。

願成就院の仏像と似た構成になっています。

阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像

3体とも玉眼ではありません。

この像以降、運慶の作品において如来や菩薩は玉眼を入れない像が多いです。

阿弥陀如来坐像は、像の高さが141.8cm。

顔は丸みがあり、ハリがあって若々しく、衣紋は深く彫られています。

その阿弥陀如来坐像の右側には観音菩薩立像(像高178.8cm)、左側には勢至菩薩立像(像高177.1cm)が脇侍(きょうじ)として安置されています。

3体とも金が貼られていますが、これは江戸時代の修復によるものです。

不動明王立像

不動明王立像は、像の高さが135.5cm。

左手を上げていた願成就院の不動明王立像とは異なり、左手を下ろした、よくあるふつうのポーズをとっています。

左手を下ろしているだけで、なにやら落ち着いた不動明王像になっています。

どちらも運慶が造った不動明王立像でありながら、雰囲気が異なるとはおもしろいですね^^

毘沙門天立像

毘沙門天立像の像の高さは140.5cm。

こちらは、願成就院の毘沙門天立像よりも右手の位置が高いです。

そのぶん、動的なポーズになっていて、迫力が出ています。

足元には邪鬼が1匹踏まれています。

邪鬼はずっと踏まれつづけていて大変です(笑)

運慶作品(12):真如苑(東京都) 大日如来坐像

所有者の真如苑(しんにょえん)というのは、真言密教系の新宗教です。

その真如苑がなぜ運慶作品(の可能性が高い)大日如来坐像を所有しているのかというと、ニューヨークのオークションで落札したからです。

海外流出の可能性が高かったこの像を、約14億円で落札したそうです。

すごい金額ですね!

庶民の私には目が飛び出るような金額です(汗)

この大日如来坐像(重要文化財)は、もともと栃木県足利市の樺崎寺(かばさきでら)の下御堂(しものみどう)に安置されていたと考えられています。

樺崎寺というのは、鎌倉幕府の御家人で、源頼朝と義兄弟だった足利義兼(あしかがよしかね)が創建した寺院です。

頼朝か義父の北条時政の仲介で、運慶は造仏を依頼された可能性が高いと考えられています。

大日如来坐像そのものは、像の高さが61.6cmとやや小ぶりです。

顔はハリがあって若々しく、胸板が厚く、安定感がある体つきをしています。

重要文化財に指定されており、現在は真如苑が運営する半蔵門ミュージアムで展示されています。

観覧無料ですよ!

運慶作品(13):光得寺(栃木県) 大日如来坐像

次も大日如来坐像(重要文化財)です。

実は、この光得寺の大日如来坐像と、上記の真如苑の大日如来坐像は〝兄弟〟だと考えられています。

真如苑の大日如来坐像が安置されていたと考えられている樺崎寺と同じ栃木県足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)の記録には、明治4年の神仏習合のときに樺崎八幡宮にあった仏像を光得寺へ移したと書かれています。

そして、双方の大日如来坐像の造形のしかたや、胎内の納入品がそっくりなことから、こちらの大日如来坐像も運慶の作品だと考えられているのです。

一方、光得寺の大日如来坐像は、真如苑(元樺崎寺)の大日如来坐像と異なる点もあります。

光得寺の大日如来坐像は像の高さが32.1cmで、真如苑の像の約半分の高さです。

また、何匹もの獅子(しし)の上に乗っている点も、真如苑のものとは異なります。

でも、大日如来そのものの見かけはそっくりです。

新しい証拠が出てきて、〝運慶作品で決定!〟という日が来るかもしれませんね。

運慶作品(14)〜(19):金剛峯寺(和歌山県) 八大童子立像

八大童子とは不動明王の眷属(けんぞく:従者のこと)です。

現在、高野山金剛峯寺の霊宝館に収められている八大童子立像のうち6体が、運慶作品です。

6体の内訳は、恵光童子(えこうどうじ)、恵喜童子(えきどうじ)、烏俱婆伽童子(うぐばかどうじ)、清浄比丘童子(しょうじょうびくどうじ)、矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制多伽童子(せいたかどうじ)です。

すべて国宝です。

残りの2体は阿耨達童子(あくたどうじ)と指徳童子(しとくどうじ)で、こちらは当初の像が失われ、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて新たに造られた像となっています。

当初の像はいったいどんな容姿をしていたのでしょうか?

失われたことが残念です(涙)

6体の像の高さは、いちばん小さい烏俱婆伽童子が95.1cmで、いちばん大きい制多伽童子が103cmです。

童子なので、子どもをイメージして造像されたのだと思います。

容姿はみな個性的です。

髪が炎のように逆立ち、怒りの表情をした烏俱婆伽童子、出家修行僧なのに口元に牙が生えた清浄比丘童子、髪型がくるくるパーマをかけているような矜羯羅童子、身体が赤色で髪を5つの球のようにまとめた制多伽童子など、さまざまです。

見くらべたら、いろいろな細かい違いがわかっておもしろそうです^^

ちなみに、これら八大童子立像が従っている不動明王坐像は、運慶の作品ではなく、平安時代末期に高野山の復興に努めた行勝(ぎょうしょう)によって造られました。

運慶作品(20):六波羅蜜寺(京都府) 地蔵菩薩坐像

六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像は、父・康慶の菩提を弔うために造像されたと伝えられています。

康慶は1196年以降の記録がないので、その後まもなくして亡くなったのだと考えられています。

運慶と息子・湛慶の合作です。

亡くなった父親や祖父のために仏像を1体造りあげてしまうなんて、すごいですね。

この地蔵菩薩坐像は、別名「夢見地蔵」と呼ばれています。

運慶が夢のなかで出逢った地蔵菩薩の姿そのままを彫ったので、そう呼ばれているそうです。

像の高さは約1メートル。

目は正面を見据え、頬にはハリがあり、目鼻立ちや眉には立体感があります。

身体には厚みがあり、胸や肩はがっしりしています。

まるで生きている人間のような雰囲気を持っているようです。

父親や祖父を身近に感じたかったから、そのように造ったのでしょうか……?

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運慶作品(21)〜(23):瀧山寺(愛知県) 聖観音菩薩立像、梵天立像、帝釈天立像

源頼朝は東大寺復興の大スポンサーで、慶派を後押しした重要人物ですが、1199年1月13日に亡くなります。

その頼朝の菩提を弔うために造像されたのが、聖観音菩薩立像、梵天立像、帝釈天立像です。

頼朝と姻戚関係にあった瀧山寺(たきさんじ)住職の寛伝(かんでん)が運慶に造像を依頼し、湛慶とともに1201年に造りました。

像は3体とも、衣が赤、青、緑とカラフルに塗られています。

のちの時代の修復で塗られた色彩です。

3体ともに重要文化財です。

聖観音立像

像の高さは174.4cm。

頼朝と等身大だと言われています。

目尻が少し吊り上がった落ち着いた顔立ちをしています。

梵天立像、帝釈天立像

梵天立像(像高106.5cm)と帝釈天立像(104.9cm)は、聖観音立像の脇侍(きょうじ)です。

ふつう聖観音像の脇侍は毘沙門天像と不動明王像であることが多いので、珍しい組み合わせだと言えます。

東寺が所蔵する「二間観音」(ふたまかんのん)は観音菩薩、梵天、帝釈天の組み合わせで、運慶は東寺の仏像を修理したことがあります。

ということは、そのときに見た二間観音に倣ったのかもしれませんね。

運慶が東寺の仏像を参考にしたらしいことは、帝釈天立像が東寺のゾウにまたがった帝釈天像と手の格好や衣装、顔が似ていることからも推測できます。

運慶作品(24)(25):東大寺(奈良県) 金剛力士立像(阿形、吽形)

運慶といえば、東大寺南大門の金剛力士像(国宝)を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。

運慶のいちばんの代表作と言っていいでしょう。

東大寺南大門金剛力士立像(阿形)

実際には、阿形像(あぎょうぞう)は、大仏師の運慶と快慶が小仏師13人を率いて造像。

東大寺南大門金剛力士立像(吽形)

吽形像(うんぎょうぞう)は、大仏師の定覚(じょうかく:運慶の弟)と湛慶が小仏師12人を率いて造像しています。

つまり、慶派総出による造像で、運慶は総合プロデューサーという立場でした。

東大寺南大門の金剛力士立像については、別ページでくわしく解説していますので、ぜひそちらをごらんください↓↓↓

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運慶作品(26):重源上人坐像

重源上人(ちょうげんしょうにん)とは、俊乗房(しゅんじょうぼう)重源のことで、長年、東大寺勧進職を務めた高僧です。

勧進(かんじん)というのは、寺社や仏像の再興のために寄付を集める役割のことで、重源は南都焼き討ち後の東大寺の再興に20年以上も尽力しました。

運慶の兄弟弟子だった快慶は、重源を信仰の師と仰いでいました。

重源は1206年、86歳で亡くなります。

その重源を彫ったのが、重源上人坐像(国宝)です。

像の高さは81.4cm。

顔と手は肌色で、顔はシワだらけ。

左右の目の大きさは異なり、口はヘの字に結ばれ、背中は丸まり、筋立った首は前に突き出されています。

まさに晩年の重源をかなり忠実に描写したかのような容姿となっています。

運慶率いる慶派は重源のおかげで仏像制作を通して東大寺の復興に貢献し、その影響力をかなり大きくすることができました。

重源上人坐像は、そのお礼と追悼の意味を込めて、造像されたのではないでしょうか。

運慶作品(27)〜(30):興福寺(奈良県) 弥勒如来坐像、無著菩薩立像、世親菩薩立像、木造仏頭

南都焼き討ちのあと、東大寺の再興をはさんで、1208年ごろから興福寺北円堂の再興が始まりました。

その北円堂の造像を任されたのが、運慶率いる慶派でした。

運慶は、全体を取り仕切る役割を果たしていたようです。

弥勒如来坐像、無著菩薩立像、世親菩薩立像の3体すべてが国宝です。

弥勒如来坐像

弥勒如来(みろくにょらい)とは、弥勒菩薩が56億7000万年後に仏となった姿で、釈迦如来の次に現れるとされる未来仏です。

気が遠くなるくらい先の未来ですね。

像の高さは141.5cm。

国宝です。

落ち着いていながらも、厳しさをそなえた表情が特徴です。

源慶を中心に、静慶、運賀、運助、運覚、湛慶、康弁、慶運、康勝ら慶派の仏師が総出で制作しました。

完成は、1212年ごろです。

無著菩薩立像、世親菩薩立像

Mujaku Asanga Kofukuji

↑↑↑無著菩薩立像

Seshin Vasubandhu Kofukuji

↑↑↑世親菩薩立像

無著(むじゃく:兄)と世親(せしん:弟)とは、釈迦が亡くなり約1000年を経た5世紀ごろに北インドで活躍し、法相宗の根幹となる唯識思想を確立した兄弟です。

無著菩薩立像は193cm、世親菩薩立像は190.9cmと、かなり大きめです。

2体とも玉眼なので、まるで生きているかのような輝きが目にあります。

無著菩薩立像はキリッとした表情、世親菩薩立像は若めの表情です。

むかし運慶展で実物を観ましたが、圧倒的な存在感を示していて印象的でした。

なお、興福寺北円堂の運慶作品は、2025年9月9日から11月30日まで東京国立博物館で開催される「運慶 祈りの空間——興福寺北円堂」で展示されます。

運慶展、2025年の開催は?東京国立博物館で運慶7作品を展示決定!
鎌倉時代初期に活躍した運慶率いる慶派が制作した仏像作品を展示する「運慶 祈りの空間—興福寺北円堂」が、2025年9月9日から11月30日にかけて、東京国立博物館で開催されます。「運慶 祈りの空間—興福寺北円堂」では、運慶作品が7体展示され、...

木造仏頭

興福寺には2つの仏頭が所蔵されていて、1つは685年ごろ(白鳳時代)に制作された銅製のもの。

もう1つが1189年ごろに制作された木製のものです。

運慶作品は後者の木製のものになります。

この仏頭(重要文化財)のなかには「西金堂釈迦」という墨書があり、1189年ごろに制作された西金堂本尊丈六釈迦如来像の頭部だと認められます。

目が切れ長で、はっきりとした目鼻立ちが特徴です。

また、仏の眉間によくある白毫(びゃくごう)がついていませんが、これについては、眉間が自然に光るのでつけなかったとの記録が残っています。

運慶作品(31):称名寺光明院(神奈川県) 大威徳明王像

現存する運慶最後の作品です。

重要文化財です。

1998年に発見され、2007年に運慶の作品だと確定しました。

鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の養育係だった大弐局(だいにのつぼね)が、実朝の病気の快癒を願って、運慶に制作を依頼した仏像です。

像の高さは21.2cmと、かなり小さめです。

大威徳明王は水牛にまたがり、手と足が6本ずつあるのがふつうですが、この大威徳(だいいとく)明王像は手足が失われてしまっています。

手足が失われる前は、どんな姿をしていたのでしょうね。

想像がふくらみます^^

▼運慶作品について広く知りたい方は、こちら↓↓↓

運慶の作品を一覧にしました!どの場所にある?国宝はどれ?どんな特徴がある?
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した「天才仏師」こと運慶。その名はよく知られていても、いったい運慶がどんな作品を残したかをよく知る方は少ないのではないでしょうか。このページでは、運慶の作品を一覧にし、どの場所に安置されていて、何が国...
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