最澄の死因の真相とは!?晩年の苦悩と日本の仏教界に残した遺志

最澄 最澄

「最澄」(さいちょう)と聞いて、皆さんはどんなイメージを思い浮かべますか?

〝比叡山延暦寺を開いた偉大な僧侶〟
〝空海と並び称される仏教界のスーパースター〟

……といった感じでしょうか?

日本の仏教を語るうえで、最澄の存在は欠かせません。

そんな最澄は56歳という若さで生涯を閉じましたが、その死因は歴史の記録にはっきりと記されていません。

私はこの事実を知ったとき、とても驚きました!

あれほどの偉業を成し遂げた人物の最期が、なぜはっきりしないままなのでしょうか?

しかし、最澄の晩年の様子や、残された言葉をたどっていくと、その死の背景にある複雑な要因が浮かび上がってきます。

この記事では、最澄が迎えた最期の日々と、その死が日本の仏教界に与えた影響について、私なりに考えていきたいと思います^^

最澄の死因は病気?過労?それとも……?

最澄が亡くなったのは、822年6月4日です。

比叡山延暦寺の中道院という場所で、静かに息を引き取ったと伝えられています。

享年56歳でした。

歴史的な史料では最澄の死因はわかっていませんが、病気で亡くなったとの説が有力なようです。

なぜ、こんなにも歴史的な人物の死因がはっきりしていないのでしょうか?

それは当時の医療技術の限界と、最澄自身の生きざまが関係しているのではないかと私は思います。

最澄は晩年、たくさんの仕事を抱えていました。

比叡山に天台宗の学校を開くため、弟子の教育や仏教経典の書写、さらには朝廷への働きかけなど、その活動は昼夜を問わなかったようです。

そして、みずから「心形久しく労して 一生ここに窮まれり」という言葉を残しています。

〝心も身体も長いあいだ苦労しつづけ、一生を終えようとしている〟という意味です。

胸が締めつけられるような言葉ですね。

最澄の苦悩がジワーッとにじみ出ています。

こんな言葉を吐くほどまでに心身を酷使していたのだから、たとえ病気でなかったとしても、過労で身体が限界を迎えていたことは想像に難くありません。

私が思うに、最澄の死因は、たんなる病気ではなく、長年にわたる過労と、次に述べるような精神的ストレスが折り重なったものだったのではないでしょうか。

最澄の死の背景にあった悲願と苦悩、そしてドラマ

最澄の死因を考えるうえで、重要なキーワードの1つとなるのが「大乗戒壇(だいじょうかいだん)の設立」です。

「大乗戒壇」とは、〝僧侶になる者に大乗仏教の戒律を授ける儀式を行う場所〟のことです。

これが朝廷から認められれば、比叡山で独自の僧侶を育成することができます。

つまり、大乗戒壇の設立は、最澄の悲願だったのです

しかし、この試みは奈良を根拠地とする南都仏教からの激しい反対に遭い、なかなか実現しませんでした。

最澄が体調を崩しながらも渾身の力を振り絞って大乗戒壇設立の必要性を説いた『顕戒論縁起』(けんかいろんえんぎ)という書が朝廷に却下されたことは、彼の心身に大きなダメージを与えたはずです。

最澄は、過労とストレスで満身創痍(まんしんそうい)だったはずです。

ところが、最澄の人生における最大のドラマは、ここから始まりました。

『類聚国史』(るいじゅうこくし)という歴史書によると、なんと最澄が亡くなるわずか1日前の6月3日に、大乗戒壇の設立が朝廷に認められたのです!

長年の努力がようやく報われた瞬間に、最澄は静かにその生涯を終えたのです。

もしもこの記述が真実だとすれば、最澄は心のなかで、「これで役目を果たせた」と感じ、安堵の念とともに旅立ったのかもしれません。

一方、別の史料『叡山大師伝』には、勅許が下りたのは、最澄の死後一週間後と記されています。

どちらが真実かはわかりませんが、私は個人的に、文字通り最澄の死の直前に大乗戒壇設立の悲願が達成されたという『類聚国史』の説のほうに圧倒的なロマンを感じます。

なぜなら、最澄の死が、ただの病死ではなく、生涯をかけた重い責任を果たし終えたという大きな安堵感に一瞬にして包まれたものだったとしたら、最澄の生きざまがより一層輝いて見えるからです。

最澄の遺志が日本の仏教界にもたらしたもの

最澄の死後、弟子たちは師の遺志を継ぎ、天台宗を発展させていきました。

その努力が実り、比叡山は日本仏教の揺るぎない中心地となりました。

もっとも注目すべきは、最澄の死後に、比叡山から多くの傑出した僧侶たちが輩出されたことです。

とりわけ、鎌倉時代に活躍した法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)、道元(どうげん)、栄西(えいざい)といった日本を代表する仏教の祖師たちは、比叡山で修行を積みました。

彼らは最澄が築いた一乗の教えのもと、法華経や密教、禅など、さまざまな教えを学び、それぞれの道を切り拓きました。

最澄の死は、天台宗を衰退させるどころか、むしろ新たな仏教の担い手を育む土壌となったのです。

最澄の死因は、今となっては正確には分かりません。

しかし、その死がたんなる個人の終焉ではなく、日本の仏教史における重要な転換点であったことは間違いないと思います。

最澄が生涯をかけて追求した「すべての人が救われる仏教」の理想は、彼の死後も生き続け、現代にまで続いています。

最澄の残した言葉や行動から、私たちは最澄の強い意志と、人びとの救済に対する揺るぎない情熱を感じ取ることができます。

最澄は亡くなっても、その遺志は今もなお私たちに大切なことを伝え続けていると私には思われます。

まとめ

最澄の死因は病気説が有力ですが、その背景には長年の過労と精神的ストレスが大きく影響していたと私は考えます。

一方で、悲願だった大乗戒壇の設立が最澄の死の直前に認められたことが事実であれば、私はそこに大きなロマンを感じずにはいられません。

最澄の死はたんなる個人の終焉ではなく、彼の遺志が弟子たちに受け継がれ、後世の日本仏教に大きな影響を与える転換点となりました。

最澄の人生と死から、私たちは志を貫くことの尊さを学ぶことができるのではないでしょうか。

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